木造駅から直線距離にすれば10kmほどの所ですが、初めての地で、変化のない道は結構長く、ずいぶん奥まった所だと感じました。そして、こんな大昔、こんな辺鄙な所に、こんな文化が発展していたのだと、変な感慨に浸ったその時、「ム、待てよ。何が『こんな辺鄙な所』なんだ。」という自問の声が聞こえました。今こそ東京が首都で「都会」だけれど、その昔は皇居の辺りまで浜で、漁をしていたところじゃないか。五能線が亀ヶ岡辺りを通っていたら、今の木造駅の辺りは亀ヶ岡よりずっと辺鄙だったはずだ。もちろん、人の踏み込めないような山奥は別として、人が住むのに適した場所や、農漁業などにふさわしい場所は全国各地にあり、鉄道の駅や整備された道路網がなかった古代は日本のどの地方が「辺鄙」だなどという概念はなかったのだ。と自分の思い込みに苦笑したものでした。
世の中には同じような思い込みをする人もいるようで、最近ある古代史研究家の本を読んでいて、「九州という辺境の地」という言葉が目に留まりました。古代史に登場する人物の伝承を論じている文脈の中で、九州を「辺境の地」「地方」と言っている言葉が目につきました。本当に九州は辺境の地なのでしょうか。現代では誰も九州を辺境の地とは思わないでしょう。奈良・平安の時代は、関東は「アズマエビス」と言われ、むしろ「地方」でした。奈良や平安の都より遠く離れた地方という意味かも知れませんが、ホツマツタヱや日本書紀に書かれている舞台としても、古墳などの遺跡や「金印」のような遺物が数多く発見され、考古学的にも貴重な舞台となっている九州の、古代の高い文化は九州が一大文化圏であったことを物語っています。どう考えても九州を「辺境の地」と表現するのはふさわしくないと思われるので、いくつかの論文や著作のある研究者でも私と同じような思い込みをすることがあるのだなあと思いました。思い込みを取っ払えばより多くのものが見えてくるのではないでしょうか。
私も、独自のホツマツタヱ訳を発表していますが、どこかで思い込みによる間違いがあるかもしれません。そんな時は是非ご指摘ください。
・・・・・平成28年10月23日