弥生時代に馬はいなかったか?

 日本には古墳時代より前には馬はいなかったというのが定説のようです。その根拠として次のようなことが挙げられています。
      ① 魏志倭人伝に「其地無牛馬虎豹羊鵲」と書かれている。
      ② 古墳時代の遺跡から馬具や馬の埴輪が出土しているので、この頃渡来人と共に大陸から渡ってきた。
      ③ 貝塚から馬の骨や歯が出土したことはあるが、現代の年代測定法によると、後代の骨が混入したものである。

 ところが定説に反して、ホツマツタヱには以下のように「馬」が度々出てくるのです。(数字)は本文の行番号です。
 まず18綾に、これはまさに神話として、「ウツロヰオムマ(アメミヲヤがウツロイ《雷の神》を馬とする)」(027)と出てきます。これはこの時代に「馬」の存在を認識していたことを示します。そして、「ツノアルナキノ ケタモノオ ノリムマケレバ ムマトナシ ノリウシケレバ ウシオシテ」(068)と、角の有無と乗りやすさの違いで馬と牛を区別しています。牛については「タノアラスキヤ ニモツモノ(田の荒鋤や荷物を運ばせる)」(069)と、使途を示しています。
 19綾は全編「馬」についてです。基本的な乗馬について「ムマノミキヨリ フミノホリ(馬の右より鐙に足をかけて乗ります)」(016)とか、「ムマノアシドリ イキスアヒ アハスカナメノ ノリノリゾ(馬の足取りと自分の呼吸を合わせることが肝要で、これが馬の乗り方の基本です)」(021)と、現代の乗馬術とほぼかわらないことが書かれています。
 馬の扱いについても、「ムマクルワセヌ ワガココロ ヒトツラヌキノ タヅナヒク(馬を失敗させまいとする自分の心と繋がっている手綱を引く)」(049)、「ツナツヨケレバ ムマトバズ(手綱を強く引きすぎると馬は飛び越しません)」(053)などと詳しく書かれています。
 また、「ツクシノムマハ スコヤカニ(筑紫の馬は丈夫)」(122)、「ミナミノムマハ チイサクテ(南の馬は小さい)」(129)など、土地による馬の特徴や「ムマモチユルハ イナムシカ ヒミヅノナセル ワザハイモ ハヤノリナシテ ノゾクナリ(馬を使えば稲虫の害や火事、大水などの災いも、馬で早く駆けつけて除くことができます)」(136)、「ミナノリムマデ マモリユク(みな馬に乗ってクシタマホノアカリを守って行った)」(20綾063)などと、馬がいろいろな場面で使われていることも書かれています。
 直接「ムマ」という言葉は出てきませんが、手綱さばきを『ヒトヌキの間』と呼ぶことについて、次のように書いてあります。「ウツロクツワヤ クニタマオ ヒトヌキノヲト ココロヱバ タトヒハスレド ノリオチズ ムマクルワセヌ ワガココロ ヒトツラヌキノ タヅナヒク アルジノママト ナルモノゾ(馬の轡と大地は一繋がりの紐と心得れば、例え失敗しても落馬することはありません。馬を失敗させまいとする自分の心と繋がっている手綱を引くと、馬は主の意のままとなるものなのです。)」(045)。私もびっくりするくらい、乗馬については今日も使われている用語がたくさんでてきますが、乗り手と馬と大地は手綱を通して一貫きになっているという思想の『ヒトヌキの間』という言葉は聞いたことがありません。すばらしい言葉だと思いませんか。私は乗馬用語には不案内なので『ヒトヌキの間』に関する言葉があったら、是非お教えください。

 しつこいように引用を並べましたが、牛が民の生活に使われていたこと、馬は臣以上の社会で使われていたこと、そして乗馬術がすでにできていたことなどが、ホツマツタヱに数多く書かれているのです。
・・・・・平成28年12月20日

ホツマ文字って?

 「なにこれ? 日本の文字のイメージとまるで違う!本物なの?」これが、初めてホツマ文字に触れた時の率直な感想でした。ネット上にもホツマツタヱを偽書だという理由に、文字について、
      ① 日本には、漢字以前に文字はなかった。
      ②「アワうた」は「あいうえお」の五十音表を並べ替えただけだ。
      ③ 日本書紀や万葉集には8母音の上代特殊仮名遣いがあった。5母音しかないホツマツタヱは偽書だ。
などということが書かれていました。でも、それには次のような反論もできるのではないかと思います。
① 本当に日本には、漢字以前に文字はなかったのだろうか?

 斎部広成が807年に撰述した「古語拾遺」という斎部氏の由緒を記した歴史書の冒頭に「蓋聞 上古之世 未有文字 貴賤老少 口口相傳(聞くところによると、上古の世には文字が無く すべての者が 口から口へと伝えていた)」とあることを根拠にしているのだと思います。「古語拾遺」は政治的な目的で書かれたもののようですが、広成は漢字以前に文字はなかったということをどのようにして知ったのでしょうか。今日のような、様々な情報を手に入れる手段のなかった時代に、「文字がなかった」という確かな情報を手に入れることができたとすれば、他にもこのようなことが書かれていてもよいはずではないでしょうか。しかも、「蓋聞」(聞くところによると)と、確証がないことを断っているのです。というわけで、「漢字以前に文字がなかった」と断言するのは正しいとは言い切れないように思います。
② 偽書だとしても、五十音表を並べ替えただけの見え見えの「アワうた」を作るだろうか?

 五十音表は、古くは平安時代からはじまり、現在の形になったのは17世紀ごろともいわれ、五十音の考え方が普及するまでは「いろは歌」や「あめつちの歌」などといういろいろな並べ方があったようです。そうすると、「アワうた」の「アカハナマ・・・」もその一つと考えることができるように思います。むしろ、日本書紀とは内容的に大きく違っていながら、筋道立っているこれだけ膨大な内容の「ホツマツタヱ」を書いた者が、現在の形の五十音表を見え見えの形で安易に作り変えるとは思えません。「ア」から始まり「ワ」で終わることには意味があり、それを唱えやすい形にした「アワうた」があったと考えてもおかしくはないように思います。
③ 上代特殊仮名遣が8母音だからといって、5母音のホツマツタヱを偽書と断定できるだろうか?

 人は文字より先に話し言葉を持っていた。それは当たり前のことです。そして話し言葉は、現代でも厳密に言えば実に多様です。例えば「ん」の発音は「m」と「n」や「ng」のように発音されている言葉も文字にすると「ん」と書かれることが多くあります。今日では「violin」は「ヴァイオリン」と書くことが多くなりましたが、辞書の見出しは「バイオリン」です。「Th-」と「Sh-」、「H-」と「F-」のような英単語も日本語化した場合は、表記はサ行、ハ行、で書き表されてきました。秋田のおばあさんが、「火を消す」を「フィを消す」と言い、「日が昇る」は「ヒが昇る」と言っていました。多分「フィを消す」を仮名書きすれば「ひをけす」と書いたのではないかと思います。このように我が国では微妙に違う発音の言葉も50音表にある仮名で書き表してきたように思います。
 上代特殊仮名遣は文字として残されたもので、録音されて残った音声がありませんから、どのように発音の区別があったかは分かりませんが、現代でも話し言葉には文字で表せないような微妙な発音の違いがあるように、上代にも微妙な発音の違いは当然あったと考えられます。それでも現在、私たちはそれらの言葉もすべて50音表にある仮名で書き表すことができます。それは、漢字が伝わる以前からホツマ文字という文化を持った我が国の人々が、すべての言葉をホツマ文字で書き表していた時期があったということと無関係ではないと私は考えています。
 上代(奈良時代)、記紀や万葉集が編纂された頃は、大陸の文物や人物が先端文化の中心となりました。記紀や万葉集が漢字で編まれているということは、そこに渡来人が大きく関与していたと考えられます。現代中国語は400超の発声に加えて四声という声調があるそうですが、そのような言葉を持つ渡来人は先に書いたような日本語の微妙な発音の違いを聞き分けることができたでしょう。
 先に例として挙げた秋田のおばあさんの発音の「日(ヒ)」と「火(フィ)」は、日本書紀も万葉集も「日」は甲類、「火」は乙類となっています。これにならって、例えば甲類の「秋(アキ)」と乙類の「月(ツキ)」の発音の違いを「アキ」、「ツクィ」と発音したと考えます。「上(カミ)」と「神(カミ)」は同じようですが、「神」は「神田」のように「カン」または「カム」と発音されることがあります。もしかしたら「上」が甲類の「ミ」で、「神」が乙類の「ン、またはム(ムィ)」と発音されていたのかもしれません。
 そこで、これはあくまでも仮説に過ぎませんが、イ段のキ・ヒ・ミ、エ段のケ・ヘ・メ、オ段のコ・ソ・ト・ノ・ヨ・ロの12字(古事記のみに「モ」がある)について、例えばイ段は「イ」と「ゥイ」、エ段は「エ」と「ゥエ」、オ段は「オ」と「ゥオ」となるような二種類の発音があったと考えてみました。そうすると、微妙な発音の違いを聞き分けることができた渡来人には、それぞれの発音は「キとクィ」、「ヒとフィ」、「ミとムイ」、「ケとクェ」、「ヘとフェ」、「メとミェ」、「コとクォ」、「ソとスォ」、「トとツォ」、「ノとヌォ」、「ヨとイォ」、「ロとラォ」などいうように音の違いが聞き分けられたのではないかと考えられます。そしてこれらの音の聞こえ方の違いをそれに当てはめる漢字の違いで表した結果が上代特殊仮名遣の8母音として今日に残ったと言えないでしょうか。
 上代特殊仮名遣は、古くは本居宣長から、橋本進吉、金田一京助、大野晋、森重敏、馬淵和夫等々目もくらむような碩学が膨大な史料と時間を費やして研究されており、論文や著書も数多くあります。ド素人の私に口をはさむ余地などないことは重々承知の上、ホツマ文字があったという観点から思いを巡らし、「キとクィ」のように聞き分けたと私は仮説をたてましたが、国語学者で5母音説の森重敏氏も「漢字の使い分けは渡来人が音声の違いを音韻として読み取ってしまったもの」と言っています。
 現代でも、日本語の旧来の言葉より英語の言葉の方が、時には新しい概念を表現出来たり、簡潔に表現出来たり、進んでいるようでカッコよかったりするという理由で、PTAやJR、コンセンサス等々英語の略称やカタカナ語が普通に使われるようになり、和語などのもともとあった言葉は影が薄くなったりするのと同じように、記紀が書かれた頃は、トレンドである(おっと、使ってしまった)渡来文化の波の中で、ホツマ文字は旧来の文化として押しやられていったのではないでしょうか。漢字文化の中で、難しい漢字を読みやすくするため、漢字の一部を取った文字でルビを振る試みがされても、恐らく漢字より下に見られ、いったん姿を消したホツマ文字がルビの文字としても再登場することはなかったことは想像に難くありません。
 このようにしてホツマ文字は歴史の陰に葬られていきましたが、これまで述べたように上代特殊仮名遣の8母音は渡来人の「耳」から生まれた漢字の書き分けによるもので、それまではホツマ文字による5母音の表記があったと考えることは、何の不自然もなく、このことをもってホツマツタヱを偽書だと断定することはできないと私は考えます。
・・・・・平成28年11月24日

浜の真砂は尽きるとも

 ホツマツタヱの奉呈文の歌が石川五右衛門の「磯の真砂は尽くるとも世に盗賊の種は尽きまじ」に似ていてアヤシイ。ホツマツタヱは後世作られた偽書ではないか。そんな論を目にしたことがあります。

「石川五右衛門の『磯の真砂は尽くるとも世に盗賊の種は尽きまじ』に似ている」と言われれば確かに似ています。ですが、五右衛門の最期の話はいろいろと創作されているようで、辞世の句も、古今和歌集に「わが恋はよむとも尽きじ、荒磯海(ありそうみ)の浜の真砂はよみ尽くすとも」の本歌取といわれているそうです。もしかしたらこの歌も、その発想はその前にもあったという可能性は否定できません。有名人Aさんとそっくりの一般人Bさんがいると、ほぼ誰もが「Bさんが有名人Aさんに似ている」といい「有名人AさんがBさんに似ている」とは言わないでしょう。Bさんの方が先に生まれていてもそういわれるでしょう。ことほど左様に、よく知られているものの方が先にあったものだと誰が断定できるでしょうか。
 また、ホツマツタヱには「めかけ」など後世使われている言葉も結構でできます。それらはホツマツタヱで使われた言葉が残ったのではないということをどうやって証明するのでしょうか。それは花押についてもいえます。ホツマツタヱがたまたま近年になるまで埋もれていただけのことで、近年、考古学では新しい発見があるたびに起源がさかのぼっています。ホツマツタヱも、記紀より古い地層から新たに掘り出されたと考えてみてはどうでしょうか。

 二千年ほど前の、ホツマツタヱの舞台である弥生時代は科学こそ発達していなかったかもしれませんが、人の営みはそんなに原始的ではなかったと、ホツマツタヱを勉強してしみじみ思っています。
・・・・・平成28年11月6日

アマテルの教え

 8綾の「魂返し、ハタレ討つ綾」を、私は歴史の中の出来事として訳しました。素直に読めばハタレが妖術を使うと訳せて、それはそれで物語としてはなかなか面白い綾です。また、解釈によっては大和朝廷と朝廷に従わない地方豪族との戦争という見方もできるでしょう。でも、私がいいなあと思うのは戦いの場面ではありません。以下はこの話の底に流れる「人間味」というか、アマテルカミをはじめとした人々の、人を大切にする精神に心惹かれた箇所の訳文の抜粋です。
 よく状況を見極めることがアマテルカミの御心が通じて、むだな争いが起きない、アマテルカミの御威光に沿う最善の方法です。ただただ優しく接することが最良の手立てなのです。
 フツヌシは諸臣と弓懸をして、再び向かって行き矢を射るように煽った。ハタレは矢に当たっても蘇ったのかなと思い、「痛くなかったのか」と言った。フツヌシは「弓懸がある。どうして痛いものか。これを受けてみろ」と羽々矢を放つと、ハタレも掴み取った。二人は共に笑った。
 タケミカツチが自ら山にハタレ達を引っ張って登って行くと、ハタレ達の多くは首がしまって死んでしまった。死んだ者は山に葬って生き残った百人をササ山の牢屋に入れた。タケミカツチが自分の怪力でハタレを死なせてしまった過ちを悔い、喪に服し謹慎していると、その様子をアマテルカミが聞かれて、皇子のクマノクスヒに喪に服しているわけを聞きに行かせた。タケミカツチが「我が誤って大勢のハタレを引っ張って殺してしまいました」と言った。
 ハタレのそれまでの悪い心を取り除き、悪いことをしないと誓約させた。そして、ハタレ達に海水で禊ぎをさせ、彼等の影をマフツの鏡に写して、ほとんどのハタレは真人間になったと確信した。彼らはみなアマテルカミの民となった。
 改心させようのない百三十人を殺した。アマテルカミが「殺してしまったら、ハタレは生前の悪業でずっと苦しむことになるぞ。真人間になるまで生かしておけば、真人間になった時は吾の民となれるのだ」と言われた。
 大勢のハタレ達はアメヱノミチの首領の影響と恐怖から逃れることができて、チワヤのアメヱノミチを破ったアマテルカミの恵みだと、みな何度も何度も拝んだ。
 アマテルカミがカナサキに言われた。「大勢のハタレを切ったが、魂返しをして、ハタレの乱れた魂の緒を解いたのでハタレも神となるであろう。吾の心は晴れ晴れと清々しい」。
 ホツマツタヱはアマテルカミの言動をはじめとして、全編を通して人間愛に満ちています。よく日本人には信仰心がないと言われます。確かに多くの日本人の心の中には宗教の教義や戒律や偶像崇拝のようなものはあまりないと思います。ですが、時として海外で称賛の的になる道徳的な行為や無私の行いは、それとは意識せずに脈々と受け継がれてきた「ホツマの教え」または「アマテルの教え」といった宗教を超える精神性なのではないかと、ホツマツタヱを勉強して思うのです。
・・・・・平成28年10月29日

思い込み

 もうだいぶ前のことになりますが、遮光土器発掘の地青森県つがる市にある亀ヶ岡遺跡(亀ヶ岡石器時代遺跡)まで行きました。五能線で車窓からリンゴ畑を楽しんだりしているうちに最寄りの木造駅に着き、高さ17mという巨大な「しゃこちゃん」の足元から駅舎を出て、タクシーで一路亀ヶ岡まで。行けども行けども田んぼの中の道をひたすら走り、やっと亀ヶ岡遺跡につきました。遮光土器の本物は東京国立博物館に鎮座ましまし、ここにあるのはレプリカです。それでもわざわざ出かけて行ったのは、石器時代にそのような文化があったのはどんな所なのか、その場に立って実感したかったからです。
 木造駅から直線距離にすれば10kmほどの所ですが、初めての地で、変化のない道は結構長く、ずいぶん奥まった所だと感じました。そして、こんな大昔、こんな辺鄙な所に、こんな文化が発展していたのだと、変な感慨に浸ったその時、「ム、待てよ。何が『こんな辺鄙な所』なんだ。」という自問の声が聞こえました。今こそ東京が首都で「都会」だけれど、その昔は皇居の辺りまで浜で、漁をしていたところじゃないか。五能線が亀ヶ岡辺りを通っていたら、今の木造駅の辺りは亀ヶ岡よりずっと辺鄙だったはずだ。もちろん、人の踏み込めないような山奥は別として、人が住むのに適した場所や、農漁業などにふさわしい場所は全国各地にあり、鉄道の駅や整備された道路網がなかった古代は日本のどの地方が「辺鄙」だなどという概念はなかったのだ。と自分の思い込みに苦笑したものでした。

 世の中には同じような思い込みをする人もいるようで、最近ある古代史研究家の本を読んでいて、「九州という辺境の地」という言葉が目に留まりました。古代史に登場する人物の伝承を論じている文脈の中で、九州を「辺境の地」「地方」と言っている言葉が目につきました。本当に九州は辺境の地なのでしょうか。現代では誰も九州を辺境の地とは思わないでしょう。奈良・平安の時代は、関東は「アズマエビス」と言われ、むしろ「地方」でした。奈良や平安の都より遠く離れた地方という意味かも知れませんが、ホツマツタヱや日本書紀に書かれている舞台としても、古墳などの遺跡や「金印」のような遺物が数多く発見され、考古学的にも貴重な舞台となっている九州の、古代の高い文化は九州が一大文化圏であったことを物語っています。どう考えても九州を「辺境の地」と表現するのはふさわしくないと思われるので、いくつかの論文や著作のある研究者でも私と同じような思い込みをすることがあるのだなあと思いました。思い込みを取っ払えばより多くのものが見えてくるのではないでしょうか。

 私も、独自のホツマツタヱ訳を発表していますが、どこかで思い込みによる間違いがあるかもしれません。そんな時は是非ご指摘ください。
・・・・・平成28年10月23日

コノハナサクヤ姫 ~記紀と読み比べる~

 「コノハナサクヤ姫」って素敵な名前ですね。ネット上のコノハナサクヤ姫の絵は、みんなすごく美人に描いてあります。この「コノハナサクヤ」という名前には、24綾を読んでお分かりのように、素敵というだけでなく、悲しい話が潜んでいるのです。日本書紀にも古事記にも同じような話がありますが、ホツマツタヱのような情感は感じられませんでした。皆さんはどのように感じられるでしょうか。是非読み比べてください。
 先日Twitterwで24綾について「コノハナサクヤ姫って素敵な名前ですが、元の名はアシツ姫。浮気心を起こしたニニキネに振られた姉のイワナガ姫に貶められ、アシツ姫は産んだ三つ子と共に室に入り火を放ったが、白子宮の桜は咲き続け、潔白を示されたことから付けられた名前。この話だけはニニキネがダメ!」って書いたのですが、どうにもそれだけでは収まらないので、もうちょっと続けます。そこで、この場面が記紀とホツマツタヱにはどのように書かれているか、読み比べてみます。記紀については要約なので、是非記紀の原文も読んでいただきたいと思います。なお、日本書紀と古事記は名前の表記が違いますが、日本書紀の表記を使います。

 日本書紀には瓊瓊杵尊と木花開耶姫の出会いの話は二通りありますが、ホツマツタヱと近く、詳しく書かれた一書の方を取り上げ要約します。
      ① 瓊瓊杵尊が浜辺で美人を見つけ、名を尋ねる。
      ② 美人は『大山祇神(オオヤマツミノカミ)の娘で、神吾田鹿葦津姫(カムアタカシツヒメ)またの名を木花開耶姫』と名乗る。
      ③ そのついでに『姉の磐長姫(イワナガヒメ)がいる』と付け加える。
      ④ 皇孫に娘を求められた父親の大山津見神は二人を行かせる。瓊瓊杵尊は姉を醜いと思い、美人の木花開耶姫だけを召す。そして一夜にして姫は身籠る。
      ⑤ 磐長姫が「もし、皇孫が自分を召していたら、御子の命は長かったが、妹一人を召したので、生まれる子はきっと木の花の如く散り落ちるだろう」と呪う。これが人の命が短くなった原因だ。(日本書紀)
      大山津見神が「石長比賣を召せば御子の命は岩のように長く、木花之佐久夜毘賣を召せば木の花が咲き栄えるように栄えるだろう」と、二人を奉ったが、木花之佐久夜毘賣だけを召したので、「皇子の命は木の花のように儚いだろう」と恨み言を言う。(古事記)
      ⑥ 木花開耶姫は一夜にして妊娠するが、皇孫に一夜にして孕むとは自分の子ではないのではないかと疑われる。
      ⑦ 木花開耶姫は無戸室(ウツムロ)に入り、火をつけ、三つ子を産む。

 では、記紀とホツマツタヱを比べてみましょう。丸数字は、上の要約に対応しています。
      ① 記紀では偶然見つけた(もしかしたらハント?)美人に名を聞きます。この時代は、名を聞くということは求婚するということだそうです。
       ホツマツタヱでは「酒折りの宮の留守をあずかっていたオオヤマスミが宴を開いた。御膳を差し上げたアシツ姫をニニキネは一夜召して妻とした。」つまり、ニニキネ(瓊瓊杵尊)は氏素性のはっきりした姫と縁あって出会っています。
      ② 記紀ではで早々と「木花開耶姫」と名乗っていますが、「コノハナサクヤ」という言葉に込められた意味合いが全く分からないどころか、これでは「木花散耶姫」とでも言われそうです。
       ホツマツタヱでは「コノハナサクヤ姫」という名前は、後に姫の強い思いを知ったニニキネによって付けられた名前で、この段階はアシツ姫という名前です。「コノハナサクヤ」という言葉にドラマが隠されているのです。
      ③ 記紀ではなぜか木花開耶姫が「姉の磐長姫(イワナガヒメ)がいる」と紹介します。一人じゃ心細いので、姉もと思ったのでしょうか。この後の話からすれば、姉の容貌がイマイチだということぐらいわかっていただろうに、どうも真意がわかりません。
      ④ 記紀では大山祇神が磐長姫もいっしょに行かせますが、これは頼まれもしないことをしたということです。
       ホツマツタヱでは、アシツ姫が身籠った後、アシツ姫の母親があわよくばと姉のイワナガ姫も連れて来て、断られるのです。それを知ったオオヤマスミは「こんなことになろうかと思い、イワナガ姫を宴の席に出さなかったのに。さっさと帰りなさい」と追い返します。記紀とはまるで父親像が違います。
      ⑤ 日本書紀では磐長姫が、古事記では父親が、姫の名前にこじつけた恨み言を言っています。しかも、古事記に至っては恨み言を「白(モウ)し送りて言ひしく」というのだから、皇孫に言ったのでしょうか。そんなことができるの?「白(モウ)し送る」をどう解釈したらよいのでしょうか。
       ホツマツタヱでは、オオヤマツミにも追い返され、恨んだイワナガ姫が、アシツ姫が身籠ったのは浮気してできたのだと嘘の話を流します。
      ⑥ 記紀では皇孫が「一夜にして孕んだのはアヤシイ」と疑いますが、翌日に子どもができたと言われれば、それはあり得ないので疑われても仕方がないかも知れません。ですが記紀には「その後」と書いてあり、間もなく出産します。十分に時が経過しても「その後」に変わりはないので、「一夜」は「一夜限りなのに」と疑ったということでしょうが、可能性があるにも関わらず疑うとは瓊瓊杵尊も大した人物じゃない、と言いたくもなります。
       ホツマツタヱはそんなひどい話にはなっていませんが、嘘の噂話を真に受けて疑うとは「この話だけはニニキネがダメ!」というわけです。
      ⑦ 記紀は疑われるとすぐさま無戸室(ウツムロ)に入り、火をつけ、三つ子を産みます。木花開耶姫がものすごく勝気な女に見え、そこには情緒のかけらも感じられないのは私だけでしょうか。さらに、火をつけてから出産し、火の中から三つ子が這い出して名乗りを上げるという、神話にしても荒唐無稽な話になっています。さらに一書には、「本当は自分の子だと知っていたが、疑う者がいると思ったからウンヌン。それで、あざけりの言葉を言ったのだ」と、男の風上にも置けないことを言っています。
       ホツマツタヱでは、疑ったニニキネが出て行った後、アシツ姫は白子宮に桜を植え、「妬まれて受けた私の恥をそそいでください。この桜は、昔曾祖父のサクラウシが奉げたものです。ヲヲンカミが宮の大内に植えて、イセの道がうまくいっているかいないかを判断されました。桜よ、心あらば、私のお腹の子が他人の子であれば花はしぼんでおくれ。君の皇子ならば産む時に咲いておくれ」と願います。「コノハナ」である桜にはこのような意味合いがあり、それはすでに6、14、16綾で触れられています。三つ子を産んだ後もニニキネに心が届かず、姫は覚悟を決めて無戸室(ウツムロ)に入り火を付けますが、周りの者が火を消して救い出すのです。それでも白子宮の桜は咲き続け、ニニキネに気持ちが伝わるのですが、使者を遣わしても「ヒメウラミ フスマカブリテ コタエナシ(アシツ姫はニニキネを恨んで、夜具を被ったまま返事もしなかった)」など心情が細やかに語られています。その後、歌を贈ったりして(これは日本書紀の一書にもあります)やっとのことでアシツ姫の心を取り戻します。「コノハナサクヤ姫」という名前は、「アシツ姫は、子を産んだ日から桜の花が絶えなかったので、コノハナサクヤ姫とする」と、②で書いたようにニニキネが名付けたのです。

 どうでしょうか、我田引水かも知れませんが、ホツマツタヱの方がはるかに詳しく情感豊かに描かれていると思いませんか。  余談になりますが、ホツマツタヱではコノハナサクヤ姫が無戸室を造ったのは富士の裾野で、助け出されて連れて行かれたのが酒折の宮ということなので、静岡県富士宮市にある富士本宮浅間社の主祭神が木花之佐久夜毘売命、相殿に祭られている神が瓊々杵尊というのはよく分かります。ですが記紀では瓊々杵尊に恨み言を言っている大山祇神も相殿に祭られているのは合点がいきません。やはりホツマツタヱに軍配を上げたくなります。
 また神奈川県伊勢原市にある比々多神社は相模の国三宮と言われ、主祭神は豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)と天明玉命、雅日女尊、日本武尊の4神で、相殿神として大酒解神(大山祇神)、小酒解神(木花咲耶姫)が祭られています。この神社が大山を神体山としているということなので大山祇神とその娘が祭られているのは分かります。ですが、なぜこの二神がお酒の神様なのでしょうか。木花咲耶姫は縁結び・子授安産とされていますが、名前が小酒解というのも?です。比々多神社のホームページには、酒解(さかとけ)の神さまを称えて、新酒の醸造安全、酒類関係者の商売繁昌を祈願する「酒祭」という行事の記事もあります。「酒解の神」と言えば、二人を指すのではないかと思うのですが。では「酒解」の謎もホツマツタヱで解いてみたいと思います。
 ホツマツタヱ7綾「ノコシフミサガオタツアヤ」に「サガ」という言葉が出てきます。「サガ」の「サ」は「清い・正しい・善・神聖」などを意味する言葉、「ガ」は「悪い・邪(ヨコシマ)・暗い・穢れ」などと考えられるとしました。そして「サガ」は「正しい行いと邪な行い・罪のある無し」と解釈しました。もとは「サガトケ」だったが「サカトケ」となったとして、この解釈に当てはめ、「サガトケ(正邪の疑念が解けた)」すなわちニニキネの疑念が晴れたコノハナサクヤ姫と考えました。大山祇は父親なので、大酒解神となったと考えます。いつのまにか「サカトケ」は「酒解」と書かれ、大山祇と木花咲耶姫父娘は呑兵衛親子みたいになってしまった、と言ったら比々多神社さんに叱られそうですが・・・。
 言い訳ではなく、私は比々多神社が好きで、コノハナサクヤ姫が祭られている富士本宮浅間社とこの比々多神社には何度かお参りさせてもらっています。
・・・・・平成28年8月28日

ホツマの時代の民はこんなに大切にされていた

 新しい綾を更新した時、Twitterで簡単にその綾の見どころを呟いてきました。振り返ってみると、君や臣の世界が書かれているホツマツタヱに、こんなにも民のことが書かれており、特にアマテルカミの民への愛情に心打たれるものがありました。直接民の生活を描写する場面はありませんが、ホツマの時代―私はそれを弥生時代と考えています―の民はこんなにも大切にされていたのだと感じました。

臣も民もいっしょに話を聞いていた。(14綾002~)
 年越しの夜、アマテルカミの話を聞きに、皇子や臣だけでなく、民も集まります。そこでアマテルカミは、皇子も臣も民もみな「クニトコタチノ コスエ」、すなわち祖先を同じくしていると言っています。話の最後には「タミカナラズモ コレナワスレソ」と、民へ声をかけています。為政者と民衆の距離がこんなにも近く、臣も民も話を一緒に聞いていたのです。

民が豊かにと願うアマテルカミ。(15綾025~)
 アマテルカミは正しい食生活について述べる中で、「アメノウムタミ」を「コノゴトク」思い、長生きしているのを見たく、食べ物の中で良いものと悪いものを分けた」と言っています。話の中には現代からすると、理解しがたい所もありますが、アマテルカミは民を我が子のように思って長生きしてほしいと願い、日常の食事に世の中にある苦菜より百倍も苦い千代見草を食べて、自らも長生きして「タミユタカニ」と願って国を治めました。まさに為政者の鑑だと私は思います。

役人も民のために頑張っていた(16綾173~)
 身籠ったヒトリ姫がコモリに、「民には子どもがたくさんいるのに、宮人には子どもがいないのはどうしてですか」と聞きました。コモリが次のように答えます。「国守などは、『タミノタメ ココロツクシテ』いるので活力が衰えて、子種が少なくなってしまうのです」。当時の役人は人々のために精力を使い果たして、子宝にも恵まれにくかったということでしょうか。25綾で取り上げますが、君であるホオデミも同じでした。民の様子は語られていませんが、民が大事にされていたことは想像に難くありません。

アマテルカミの教え(17綾037~、051~)
 ホツマツタヱの魅力の一つはアマテルカミの教えです。「神鏡、八咫の名の綾」というタイトルからアマテルカミの難しい理論が並べられているように感じますが、実は民への思いが強く語られているのです。「親が子を身籠れば、母親は乳が出る。父母は、まさしく垂乳根である。治める人も教える人も、垂乳根ではないが、親なのである。それを考えると、吾が治めている民は我が子のようなものなので、民こそが国の主体なのである」と言っています。特に「タスクルタミハ コノゴトク ヤタハオオヤケ」という言葉はアマテルカミが民を政治の中心に考えていた証しのように思えます。
 また次のようにも説いています。「臣達は一日中気をゆるめることなく、民に教えることを常に仕事とせよ。臣は我が子、民は孫と思い、分け隔てせず慈しんで恵みを与えようと吾は思っている」。そしてこれに続く「ヲシヱヌモノハ トミナラズ ヲシヱウケヌハ タミナラズ」(民に教えることができない者は臣の資格がない。また、教えを受けようとしない者は民でない)という言葉の凛とした響きにアマテルカミの強く、偏らない愛情が感じられます。そして、これらの考えは平安時代の貴族社会や江戸時代の封建社会とは全く違う、現代にも十分に通用する素晴らしい理念だとは思いませんか。

アマテルカミの厳しい目(17綾066~、095~、101~)
 アマテルカミは「人の心の中はおよそ十中九人は、表向きはまじめに働いているように見せ陰では怠けている。(アラハニツトメ ウラヤスム)」また、「人の心の中には人が二人いる。(ヒトノナカゴハ ヒトフタリ)」と、人の本性を見抜いています。ム、ム! 2千年以上昔から、私のサガが見抜かれていたとは・・・。
だからと言って、切り捨てたりはしません。民の中には「ニブ、ナレ、トキ」すなわち鈍い者・並みの者・賢い者がいるが、「例えば、たくさんある器も、屑のようなものも捨てないでできの悪い物もよい物も、まんべんなく使うのが二尊の御心であった。吾は、良い者も悪い者も慈しんで楽しみとして見守っている」と言っています。・・・救われました。

民は固定された階級ではなかった?(17綾372~)
 「ツチカフハ ミノアシハラモ ミツホナル タミトナセトミ トミトナレタミ」という二尊(イサナギ・イサナミ)の「カミノミウタ」の「タミトナセトミ」は「臣は民と一緒に働け」、「トミトナレタミ」は「臣になりなさい民よ」。この言葉から、私はこの時代は「民」は固定された被差別階級ではなかったのではないかと考えます。

江戸時代の参勤交代では考えられない民との関わり(20綾010~、076~)
 君のオシホミミがアシハラクニを治めようと旅立つ支度をしていると、「タミ アツマリテ ヒタトトムユエ」クシタマホノアカリを代わりに行かせることにしました。このことだけでも、民を大事にする政治が行われていたことが想像できます。そして、ホノアカリの行幸の道中、民が出迎えに出て農作業に支障が出ていると聞くと、民に負担がかからないように「イワフネ ススムベシ」と一行を船旅にさせたアマテルカミの民への思いやり。いつの時代でも君のあるべき姿と言えるでしょう。

わずか19行に「民」が5回!(21綾119~)
ニニキネが新治に新宮を造ったときの話です。「カドノタカヤニ ヤマサカミ マツルハタミノ カラフシマ」、「民ノカラガレ アラジナト」と、ニニキネは民の困窮がないように、この門に願いをこめています。そして「ヲサガオゴレバ タミツカル」、「タミココロ アメニトドキテ」と、目配りをして「タミオミダラバ ソノツカサ アラタメカエテ カレオトク」と、民を苦しめる村長を更迭するとしています。都を遷すに当たり、とても民に配慮していることが、19行に「タミ」という言葉が5回も出てくることからよくわかります。

ホオデミの「ツクシノタミオ オモウバカリゾ」に感激(25綾234~)
 ホオデミ(ウツキネ)は九州で農業の振興に力を入れ、次第にそれらの土地も豊かに肥えて民は安心して暮らせるようになりました。「ミススノアイタ シバラクモ ヤスマデタミオ タスユエニ キサキツボネモ ミコウマス」と、ホオデミは働きづめで皇子をもうけることもできませんでした。そして、やっとトヨタマ姫と静かに過ごせるようになっても、ホオデミは「ツクシノタミオ オモウバカリゾ」(我は筑紫の民のことが ただ思われるのだ)とウツキネは話されたというのです。これが君と言われる人の生活だったということはホツマツタヱでなければ知りえないのではないでしょうか。
・・・・・平成28年5月25日

いまさら偽書か否かもないけれど……

 やっと20綾の更新にたどり着きました。2015年12月から5か月足らずで、よくここまで来たと思います。まだまだ力不足ですが、これからも独自の解釈で「超訳」していき、少しでもホツマツタヱの面白さや古代史資料としての価値をお伝えできたらと思っています。
 ところで、最新の20綾で、クシタマホノアカリが遷宮するときの37人もの同行者のそれぞれについて、例えば次のように列挙されています。
カグヤマはヤマスミの第二子
フトタマはタカミムスビの第三子
コヤネはカスガ殿の子
クシタマはタカミムスビの第四子
ミチネはカンミムスビの曾孫
…等々
 これだけ詳しい関係が書かれているのだから、偽書であるわけないと言いたいところですが、同じようなことが先代旧事本紀にも書かれているのです。「先代旧事本紀を元にして書いたのだ」と、ホツマツタヱ偽書論の方は言うだろうと、先代旧事本紀と比べてみました。
 先代旧事本紀には次のように書かれていました。
天香語山命 尾張連等祖(あまのかごやまのみこと をはりのむらじたちのおや)
天鈿賣命 猨女君等祖(あめのうずめのみこと さるめのきみたちのおや)
天太玉命 忌部首等祖(あまのふとたまのみこと いむべのをむたちのおや)
天兒屋命 中臣連等祖(あまのこやねのみこと なかとみのむらじたちのおや)
天櫛玉命 鴨縣主等祖(あまのくしだまのみこと かものあがたぬしたちのおや)
天道根命 川瀬造等祖(あまのみちねのみこと かはせのみやつこたちのおや)
…等々
 なるほど、全く同じではありませんが、確かに書いてあります。ですが、両者を比べてみると、ホツマツタヱでは書かれた人物が誰の子だとか孫だとか兄弟だとか、その人物の「現時点」での記述になっていますが、先代旧事本紀には、書かれた人物が「誰々の祖」と書かれています。すなわち、書かれた人名を過去の人として認識しているのです。ということは、先代旧事本紀は少なくもホツマツタヱが書かれた時より後に書かれたものと考えられ、「先代旧事本紀を元にして書いた」ということは、まずあり得ないと思います。
 ついでながら言うとホツマツタヱでは、ミチネはムラクモの兄だと読み取れますが、先代旧事本紀では、天牟良雲命(あまのむらくものみこと)として書かれていて、度會神主等祖(わたらへのかんぬしたちのおや)となっていて二人の関係は読み取れません。
 これですべてを断定するわけにはいかないかもしれませんが、読めば読むほどホツマツタヱは貴重な古代資料だと思えてなりません。
・・・・・平成28年4月14日

突然ですが、シジュウカラです

シジュウカラ日記』始めました。

我が家の庭の巣箱には毎年シジュウカラが巣作りをします。今年、ウェブカメラを設置して待ち構えていました。3月1日にシジュウカラが巣箱に入ったのに気づき、カメラを起動したところ、すでに巣材が運び込まれていて、どうやら昨日あたりから始めたような様子でした。通常3月半ば以降巣作りを始めるということですが、2月29日営巣開始というまさかの速攻に、録画が間に合わず、3月2日からの記録となりました。
ホツマツタヱの固い話の合い間に、料理の箸休めのように気分転換にでも可愛く健気な様子をご覧いただければと思います。
メスだけで一生懸命巣を作るところから、抱卵まできました。孵化、子育て、そして巣立ちまで無事でいてほしいと願っています。
・・・・・平成28年3月30日

イサナミ尊は千人も絞め殺さない!

 5綾の、黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)でイサナミ尊とイサナギ尊が交わした
イサナミイワク「ウルワシヤ カクナサザラバ チカフベオ ヒビニクビラン」
イサナキモ「ウルワシヤワレ ソノチイモ ウミテアヤマチ ナキコトオ マモル」
という言葉を私は次のように訳しました。
イサナミ尊は言われました。「愛しい君よ、私がこのようにしなければあなたは千人の民の命を日々奪うことになるでしょう」。
イサナギ尊も「麗しい人よ、吾は千五百人の民を増やして、民の命を奪うような過ちは絶対にしないように誓います」と言われました。

 日本書紀の原文は次の通りです。
時伊弉冉尊曰、愛也吾夫君、言如此者、吾當縊殺汝所治國民日將千頭。
伊弉諾尊、乃報之曰、愛也吾妹、言如此者、吾則當産日將千五百頭。
 岩波文庫日本書紀の読み下し分は次の通りです。
時に、伊弉冉尊の曰はく、「愛しき吾が夫(なせ)の君(みこと)し、如此(かく)言(のた)はば、吾は当(まさ)に汝(いまし)が治す国民(ひとくさ)、日(ひとひ)に千頭(ちかうべ)縊(くびり)殺さむ」とのたまふ。
伊弉諾尊、乃(すなは)ち報(こた)へて曰はく、「愛(うるは)しき吾が妹(なにものみこと)し、如此言はば、吾は当に日に千五百頭(チ神戸あまり以降邊) 産ましめむ。
 また、全現代語訳日本書紀(宇治谷孟著、講談社学術文庫)での現代語訳は次の通りです。
その時伊弉冉尊がいわれるのに、「あなたがそのようにおっしゃるならば、私はあなたが治める国の民を、一日に千人ずつ絞め殺そう」と。
伊弉諾尊が答えていわれる。「愛するわが妻が、そのようにいうなら、一日に千五百人ずつ生ませよう」と。
日本書紀原文の「吾當縊殺汝所治國民」を元に考えれば、確かに伊弉冉尊が千人の首を絞めて殺すと読めます。

 ちなみに書籍やインターネットで公開されているホツマツタヱの同箇所の訳も知り得る限りではすべて、イサナミ尊が千人の首を絞めて殺すことになっています。実に私は孤立無援の状態なのです。
 では、もう一度 「ウルワシヤ カクナサザラバ チカフベオ ヒビニクビラン」を見てみましょう。この中の「カクナサザラバ」に当たる日本書紀の同箇所は「言如此者」、その読み下し文「如此(かく)言(のた)はば」、現代語訳「あなたがそのようにおっしゃるならば」となっており、ホツマツタヱの「カクナサザラバ」と明らかに肯定と否定の違いがあります。私は、が「一日に千人ずつ絞め殺す」と言ったとすれば、民のために互いに艱難辛苦を越えて尽くしてきた夫にこの言い方はあまりにも過酷で、不自然に思えます。しかも伊弉冉尊は「愛するわが夫よ」と言っているのです。
 私は「カクナサザラバ」を「このようにしなければ」と訳しました。すると主語は私(イサナミ)となり、「このようにする」ということは、醜女(シコメ)に追い返させたこととなります。すると、「(追い返さずに)イサナギ尊までもが死んでしまえば多くの民の命が危ない」ということになり、「愛しい君よ、私がこのようにしなければあなたは千人の民の命を日々奪うことになるでしょう」という訳にしたのです。そして「イサナギ尊までもが死んでしまえば多くの民の命が危ない」というイサナミ尊の思いをイサナギ尊が夢の中で気づいたというようにわたしは解釈したのです。そして、この方が二尊の生き方にふさわしいと私は思うのです。

 浅学菲才で、古文とりわけ漢文に弱い私がこんなことまで言うとどうかとも思いますが、やはり原典はホツマツタヱで、日本書紀に書かれた時点で「カクナサザラバ」が「言如此者」と、逆の意味にすり替わったのではないかと考えます。千葉富三先生も著書でホツマツタヱから日本書紀に書き写される時、区切りを間違える「ギナタ読み」などにも具体的に触れています。日本書紀の揚げ足取りをするつもりは毛頭ありませんが、今後も違いの大きい所は取り上げていきたいと思います。
・・・・・平成28年2月24日
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