浜の真砂は尽きるとも

 ホツマツタヱの奉呈文の歌が石川五右衛門の「磯の真砂は尽くるとも世に盗賊の種は尽きまじ」に似ていてアヤシイ。ホツマツタヱは後世作られた偽書ではないか。そんな論を目にしたことがあります。

「石川五右衛門の『磯の真砂は尽くるとも世に盗賊の種は尽きまじ』に似ている」と言われれば確かに似ています。ですが、五右衛門の最期の話はいろいろと創作されているようで、辞世の句も、古今和歌集に「わが恋はよむとも尽きじ、荒磯海(ありそうみ)の浜の真砂はよみ尽くすとも」の本歌取といわれているそうです。もしかしたらこの歌も、その発想はその前にもあったという可能性は否定できません。有名人Aさんとそっくりの一般人Bさんがいると、ほぼ誰もが「Bさんが有名人Aさんに似ている」といい「有名人AさんがBさんに似ている」とは言わないでしょう。Bさんの方が先に生まれていてもそういわれるでしょう。ことほど左様に、よく知られているものの方が先にあったものだと誰が断定できるでしょうか。
 また、ホツマツタヱには「めかけ」など後世使われている言葉も結構でできます。それらはホツマツタヱで使われた言葉が残ったのではないということをどうやって証明するのでしょうか。それは花押についてもいえます。ホツマツタヱがたまたま近年になるまで埋もれていただけのことで、近年、考古学では新しい発見があるたびに起源がさかのぼっています。ホツマツタヱも、記紀より古い地層から新たに掘り出されたと考えてみてはどうでしょうか。

 二千年ほど前の、ホツマツタヱの舞台である弥生時代は科学こそ発達していなかったかもしれませんが、人の営みはそんなに原始的ではなかったと、ホツマツタヱを勉強してしみじみ思っています。
・・・・・平成28年11月6日