10 卑弥呼は九州倭国の田油津媛だった
卑弥呼は誰か?そもそも卑弥呼という人物は実在したのか?古代史の謎でありロマンでもある卑弥呼。箸墓古墳の被葬者が卑弥呼と言われたり、平原遺跡や石塚山古墳なども卑弥呼の墓と言われたりして、実に日本には卑弥呼に比定される女性が何人もいます。天照大御神、神功皇后、倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)、倭姫(ヤマトヒメ)等々。その他、九州にも甕依姫(ミカヨリヒメ)など何人もの候補がいます。しかし、その先代の女酋が卑弥呼だとも言われる田油津媛(タブラツヒメ)は卑弥呼候補としては注目されていません。では、なぜ「卑弥呼は田油津媛」と言えるのか、舞台は少々ホツマツタヱの時代から進んでしまいますが、話を進めていきます。
日本書紀は皇紀で書かれているため、年代がはっきりしません。私はこれまでの古代史の問題をすべて私が算出した年表の年で(自分では問題なく)解釈してきました。本稿でも私の算出した年表「ホツマツタヱから推測した天皇即位年による古代史年表」を使用しています。
倭国乱れる
中国の複数の史書に「倭国大乱」「倭国乱」などと、倭国に騒乱または戦乱があったことが書かれています。その中の「梁書」には、倭国が乱れたのは霊帝の光和年間のことと書かれています。光和年間は178~185年 (184年という資料もあります) にあたります。この倭国の乱れを収めるために卑弥呼が共立され世の中が治まったと言われていますが、はっきりした年は分かりません。これはあくまでも私の推定ですが、乱が収まったのが光和年間の終わりごろとすると、大体185~186年頃に卑弥呼の時代が始まったと考えられます。
それではなぜ倭国が乱れたのでしょうか。ここで言う「倭国」とは、「新説異説」の「徐福、卑弥呼、筑紫の君」で「九州の筑紫平野の辺りに秦から来た徐福集団が住み着き、そこを九州倭国とする」とした「倭国」です。それを前提として話を進めます。
気候変動に振り回される人々
秦から来た九州倭国の人々による農耕社会は、人口を増加させるに適した社会構造だったようです。「日本人の起源を探る」(隈元浩彦著、新潮OH文庫)によると、徐福集団が住み着いたと私が考える今から2000年前頃に人口爆発と言っていいほどの時期があったということです。出生率だけでなくて、外部からの移住も含まれると思いますが、かなりの人口増があったということは間違いないようです。
気象予報士でもある田家(タンゲ)康の著書「気候文明史」(日本経済新聞出版社)に「日本列島に水田が広がる紀元前4世紀から紀元1世紀世紀にかけて『弥生暖期』ともよばれる温暖化傾向になり、農業生産力が大幅に向上した。」とあります。このような時期に人口増があったのでしょう。しかし「2世紀後半以降、東アジア諸国でも洪水や旱魃の頻度が増し、冷涼な気候に襲われて政治的な混乱が生じた」と田家氏が書いているように、九州倭国でも寒冷化による農作物の不作で、食糧確保のための争いが起き、倭国大乱といわれるような戦いが続いたのでしょう。このような時代背景を持つ185年~186年頃に卑弥呼は共立されたとのではないかと考えられます。
人口は増加、食糧の確保が困難となれば、当然争いが起きます。崇神天皇(151~174、ミマキイリヒコ)の時代は厄病が流行り、逃散があったりして大変な時代でしたが、次の垂仁天皇(イクメイリヒコ、175~194)の時代も結構大変な時代でした。ホツマツタヱにも、この頃ヤマトの国や九州の一部が乱れたことがうかがえる次のような記述があります。
- (1)「カモノミヤ アルルオフシテ オモミレバ カモトイセトハ ミヲヤナリ スデニヤブレテ イツホソシ マモリホソキハ オトロヒカ(賀茂の宮が荒れています。よくよく考えてみれば賀茂の神も伊勢の神も君の御先祖なのです。それなのに賀茂の宮は既に破損がひどく御威光も陰っております。政が行き届かなくなっているのは賀茂の宮の御威光が衰えているからでしょう)」(37綾075~)これはタタネコが上下賀茂社と貴船神社を回り見て帰り、垂仁天皇に報告した言葉です。ここで注目したいのは「政が行き届かなくなっている」という言葉で、社会が不安定になっている様子がうかがえます。
- (2)「ミソヰホノ ナヅキヰソキネ タカイシト チヌノイケホル メヅキホル サキトアトミト モロクニニ ヤモノイケミゾ ツクラシム(三十五年の九月にヰソキネはタカイシとチヌに池を掘り、十月にはサキとアトミに池を掘った。諸国にたくさんの池や水路を造らせた。)」(37綾119~)「ヤモ」は直訳すれば「八百」です。それほど多くの農業用水池や水路を造ったということから水不足だったと考えられます。
- (3)「ムソヨトシ サミダレヨソカ フリツヅキ イナダミモチニ イタミカル キミニモフセバ ミヅカラニ カセフノマツリ ナシマセバ ヤハリワカヤギ ミヅホナル(六十四年、五月雨が四十日も降り続いて、田の稲はいもち病にかかり、傷んで枯れそうになった。君に申し上げると、君自ら風生の祭りを行われ、再び稲は活き返り、稲穂が実った。」(37綾139~)「サミダレ」は五月雨で、梅雨のことだと思いますが、この年は多雨と日照不足に苦しんだようです。
- (4) 究極は37綾189からの「コソホキサハヒ ミコトノリ カクオモトメニ タシマモリ トコヨニユケヨ ワガオモフ クニトコタチノ ミヨノハナ(九十年二月一日、詔があった。『香久の木を探しに、タジマモリよ、常世(ヒタカミ)に行ってくれ。吾が思うには、香久の木はクニトコタチが国を建てられた御世の大切な花なのだ』)」という記述です。初代アマカミ、クニトコタチが建国したというトコヨの国は、法もとおり、よく治まった理想の国と考えられていました。イクメイリヒコの言う「カク(香久・カグ)」というのは、トコヨの国のシンボルとして植えられている木で橘の木のことです。でも「香久の木を探しに行かせた」ことがなぜ究極なのかと疑問に思われることでしょう。
総合地球環境学研究所の中塚武教授(生物地球化学・古気候学)の研究資料を見ると、イクメイリヒコの時代は異常気候に見舞われ、長雨や旱魃になることが他の時代に比べて多かったように思われます。朝鮮の歴史書「三国史記」の「新羅本紀」でも「伐休尼師今(バッキュウニシキン)9年(192年)4月雪が降り、夏五月大洪水。10年(193年)6月倭人大いに飢える。来たりて食を求めるもの千余人」とあります。この場合の倭人は韓半島の海沿いの倭人です。また、「後漢書」には「194年秋7月、4月から雨が降らない」との記述もあります。このように、この頃の日本周辺は異常気象に苦しめられていたと考えられます。そのため君は、理想の国とされた古のトコヨの国のシンボルの香久の木の力にすがるしか打つ手がなかったというほど追いつめられていたという究極の状況だったと私は考えるのです。
ヤマトでもこのようであったので九州でも同様の状態だったのではないでしょうか。そのため、ヤマトへの貢も滞り、その後のヤマトヲシロワケの時は6年間のクマソ退治やコウス(ヤマトタケ)のクマソ討伐などで九州はゴタゴタすることになります。このようにして卑弥呼登場の素地が作られていきました。
共立された面の上の国の姫御子
福岡県みやま市には「面の上、面の口、面の坂」という地名があります。後漢書に、「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見(安帝永初元年《107年》倭国王帥升等は生口160人を献じ、拝謁を請うた)」と書かれています。史書によっては「倭面土国」「倭面上国」「倭國土地」などと書かれています。通説として、多くは「倭国王」と書かれた後漢書の文を引き写したとされていますが、私はこの中の「倭面上国」に注目したいと思います。というのは、「倭面上国」は「倭の面の上の国」、すなわち九州倭国の中の一部である「『面の上』という国」を表わしているのではないかと考えるからです。
中国史書に「倭面上国」と漢字で表記されているということも、倭の使者が「面上国」と書いた文書を持参したと考えれば不自然ではないと思います。今日の「常識」では、107年頃には文字がなかったのでこのようなことはあり得ないと考えられると思います。ですが、この頃既にこの筑後佐賀の辺りは徐福の末裔が住んでいたと私は考えています。とすれば、漢字の読み書きや中国語での会話もできておかしくないと私は思います。ちなみに、この「面の上」の台地には20~30基の古墳群があるそうです。「国王」と名乗るだけの地位の者がいてもおかしくないと思います。
「倭人の国では、もと男子を王とし、70~80年続いたが、国が乱れ、攻め合うこと数年の後、一人の女子を共立した。名付けて卑弥呼という。」と魏志倭人伝に記されています。70~80年経た後の178年頃、前述のような状況の中で九州倭国内でも対立が起き、その収拾のために185年頃卑弥呼が共立されたと考えます。九州倭国内での多くの国が従うことが可能だった人物、それが卑弥呼だったのでしょう。「ヒミコ」の語意は日の皇子、霊の巫女、姫子などいろいろ考えられますが、「姫御子(ヒメミコ)」すなわち王の血筋のヒメミコが「ヒミコ」と呼ばれるようになったとするのが一番自然に思われます。「卑弥呼」は名前ではなく、倭面上国の姫御子という地位を指す言葉だったのではないでしょうか。このようなことから、私は卑弥呼は徐福の血を引いた倭面上国王の血筋のヒメミコだったのではないかと考えます。
七支刀を贈られた倭面上国の君
倭面上国について、もう一つ興味深い話があります。「369年に百済の近肖古王が高句麗の大侵攻を受けたが、倭に助力を得て371年に高句麗の故国原王を戦死させた」という話です。ここに出てくる倭は勿論ヤマト朝ではなく九州倭国です。日本書紀には神功49年の事跡として載っていますが、この記述はヤマト朝のことと倭国のこととが混乱しているように思います。この戦で、九州倭国は比自㶱(ヒシホ)、南加羅(アリヒシノカラ)、㖨國(トクノクニ)、安羅(アラ)、多羅(タラ)、卓淳(トクジュン)、加羅(カラ) の7国を平定し、比利(ヒリ)、辟中(ヘチュウ)、布弥支(ホムキ)、半古(ハンコ) の4邑を降伏させたとあります。その謝礼として百済は九州倭国に七支刀(ナナツサヤノタチ)と七子鏡(ナナツコノカガミ)を持ってきたのではないでしょうか。この時の倭王は「旨(シ)」という名前だと古田武彦氏は述べていますが、私もそう思います。
七支刀を持った百済の使者を模した人形がみやま市のこうやの宮に祭られているのは、まさにみやま市辺りが倭面上国を含む九州倭国であったことを物語っていると思います。この地では七支刀を持った百済の使者などの人形は昔から神として大切にされ、20年前頃までは花見の時には、土地の人々は神像を連れて出ていたという話が綾杉るなさんの「神功皇后伝承を歩く」に書かれています。この地の人々の誇り、愛着が感じられる話です。その七支刀は現在石上神社に国宝として保存されています。どういう経路で石上神社に行ったのかは分かりませんが、七支刀を持つ神像がみやま市にあるということは、この辺りの誰か(この場合は「旨」でしょうか)がもらったのではないかと考えるのが一番自然のように思います。
このように考えると、この「旨」なる人物は年代的に倭王讃の父親か祖父にあたる人ということになり、「倭の五王」はみやま市辺りまでを統治していたのではないかと考えられます。そしてこの系統が筑紫の君に続いていくということになるのです。また、卑弥呼の墳墓ではないかと言われている堤古墳や権現塚がみやま市の瀬高にあり、研究者の中には邪馬台国の中心は瀬高であると主張している人もいます。
今に残る秦王国の名残り
時代が少し下りますが、隋書に大業3年(607年)に遣の裴世清が九州倭国に来た時の様子が書かれています。「(前略)都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國(都斯麻国(対馬)をへて、はるかに大海の中にある。また東に行って一支国(壱岐)に至り、また竹斯国(筑紫)に至り)(石原道博編訳 中国正史日本伝1岩波文庫)と、海路が書かれています。この文の後に「又東至秦王國(また東に行って秦王国に至る)」とあり、秦王国の人にふれた後さらに「經十餘國達於海岸(また十余国をへて海岸に達する)」と続いています。さて、裴世清はいったいどこで上陸したのでしょうか。もし十余国をへて海岸に達して上陸したとすると、その先はあいまいで何という国かも書かずに、倭王に歓迎されたと書いてあるということになります。その前の詳しさに比べ、大事な所があっさりしすぎてどうも腑に落ちません。そこで私は、裴世清は海路、対馬・壱岐を経て筑紫で下船したと考えてみました。裴世清は唐津辺りで降りたと仮定すると、だいたい東に行くと佐賀県の北波多村、南波多村があります。「波多」と「秦」。ここがその昔「秦王国」とよばれていた地ではないかと想像が膨らむではありませんか。佐賀県は徐福伝説が多い土地です。さらに東に進めば海岸があり、文中に書かれた阿蘇山も見えます。まさに裴世清の歩いた景色ではありませんか。このような史料をあわせ考えると、帥升(108年)から607年のアメノタリシホコまでは、九州の久留米、八女、三瀦、みやま、佐賀辺りの「平原広沢」が倭国といわれ、徐福、卑弥呼、筑紫の君などと続いてきた九州倭国ではないかと考えられてしまうのです。
卑弥呼の最期
卑弥呼と田油津媛のつながりを説明するまでにずいぶん回り道をしてしまいましたが、上記のような地理的歴史的状況が背景としてあり、仲哀天皇の頃になってもまだ冷涼な気候は治まらず、熊襲も貢を納めることができなかったのではないでしょうか。下関市の忌宮神社にある「鬼石」の由緒書きに「仲哀七年七月七日に新羅の塵輪(ジンリン)が熊襲を扇動して豊浦宮に攻め込んできた」(綾杉るな著「神功皇后伝承を歩く」)と書かれているそうですが、このような状況下で新羅の塵輪が熊襲を扇動し、九州倭国やヤマトの本土を襲って食糧などを強奪するという事件が起きていたと考えられます。食糧の危機は九州倭国も同じだったのでしょう。ですから九州倭国の卑弥呼もヤマト朝に食糧危機の状態を訴えていたのではないかと思われます。しかしヤマト朝の神功皇后から見ると九州倭国のまつろわない人は「クモ」であり「クマ」であったりしたのでしょう。私は、この中の一人が倭面上国王の血筋のヒメミコ、すなわち魏志倭人伝にある倭の女王卑弥呼だと思っているのです。事実、みやま市にある「蜘蛛塚」(大塚)は「土蜘蛛の首長田油津媛の墓」と言われています。
さて、日本書紀によれば、仲哀天皇9年に天皇が崩御し、神功皇后は3月に羽白熊鷲および田油津媛を討ち、10月には新羅へ出兵、12月に誉田皇子が生まれ、翌年2月に仲哀天皇の葬儀を行い都へ戻ったということになり、いかにもせわしないように思います。新羅への出兵が出産2か月前だったり、生後2か月の乳児を連れて九州から京へ向かったりしたというのはいささか無理があるように思います。
田川市川崎町史によると、帝階八幡神社(タイカイハチマンジンジャ)の由緒には「家伝ニ曰、八幡宮ハ筑前ノ国御笠郡産ノ宮ニ御降誕アラセラレ、御七歳迄彼国香椎ノ宮ニ御生長座テ・・・」と書いてあります。すなわち、誉田皇子は香椎の宮で7歳まで成長したということです。ちなみに帝階八幡神社は現在はありませんが、その由緒書きなどは位登八幡神社の塚に祭ってあるそうです。興味深いことに、先の由緒の前書きに、「当本縁起ハ便文書顕天平宝字古文字ノミ数多アリ、不能諸人読以此、子惧後世改道用之文字矣 天正二年六月十六日 社詞 李之進 謹書」とあります。これは、由緒はもともと古代文字で書かれていたのを、織田信長の時代の天正2年に上記のような漢字かな交じりの文に書き直されたと読めます。読めない文字で書いてあったからこそ、それまでの権力者による改ざんの手が入らなかっただろうと想像されるので、内容の信頼性は高いと判断しました。
誉田皇子の7歳の年は私の年表では247年のことです。ということは、神功皇后は誉田皇子7歳の年、247年まで九州にいたことになります。そうすると、日本書紀では神功皇后は仲哀9年(240年)3月に羽白熊鷲と田油津媛とを同年に征伐したことになっていますが、事実はこれと違い、神功皇后は香椎の宮に誉田皇子と7年間滞在し、田油津媛を247年に征伐したのではないかと思われます。
これは想像にすぎませんが、二人の間では何度も話し合いがもたれていたような気がします。二人の女傑はどのようなビジョンを持っていて、どのような話をしたのか、日本書紀には記述がありませんが、結局田油津媛は魏に援護を頼み、神功は自ら新羅を攻めるという別な選択をし、もしかしたら神功皇后に貢の猶予をもらえなかった田油津媛は皇后に刃を向けたのかもしれません。そうして結局は神功皇后に滅ぼされる結果となってしまったのでしょう。神功皇后は山門で田油津媛を討った247年に都へ引き上げたと考えられます。そのように考えると、それは魏志倭人伝の「卑弥呼死す」の247年と一致するのです。
日本書紀の編者は神功皇后と卑弥呼を同一人物だと考えているようなそうでないような書き方をしているようにわたしには読めますが、この二人が同時代を生きた人物で、しかも戦った相手と言われたら、編者は混乱の極みであったでしょうし、読者の皆さんにもにわかには受け入れていただけないことでしょう。倭国乱とは、新羅、熊襲、ヤマト朝、倭国の広範囲にわたる気候変動をきっかけとした「大乱」であり、魏志倭人伝の「卑弥呼以死」とは、田油津媛が神功皇后と交戦になり死んだということではないかと私は考えるのです。このように、神功皇后と卑弥呼は同じ時代を生きていたのですが、卑弥呼(田油津媛)のような勇敢な女性がいたということはヤマトの文献には残されず、卑弥呼は永遠の古代史の謎でありロマンとなってしまったのです。