14 天孫瓊瓊杵尊は何をしたのか?
日本書紀に登場する瓊瓊杵尊とホツマツタヱのニニキネ尊
ホツマツタヱに書かれているニニキネ尊は、皆さんご存知の通り、日本書紀に「天津彥彥火瓊瓊杵尊、天津彥國光彥火瓊瓊杵尊、天津彥根火瓊瓊杵根尊、火瓊瓊杵尊、天國饒石彥火瓊瓊杵尊、天饒石國饒石天津彥火瓊瓊杵尊、」、などと表記されています。一般的に呼ばれている「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」の「杵」はホツマツタヱでは「キネ」となって「ニニキネ」と呼ばれています。さらにホツマツタヱには諱(実名)が「キヨヒト」と書かれていますが、記紀には書かれていません。このような違いはありますが、「天忍穂耳尊(オシホミミ)と栲幡千千姫命(タクハタチチ姫)」の子であるという系譜からも同一人物と考えていいと思います。
日本書紀の瓊瓊杵尊
では、日本書紀では瓊瓊杵尊はどのように書かれているでしょうか。
日本書紀に書かれていることは、天照大神の孫で天忍穂耳尊の子の瓊瓊杵尊が高千穂の峰に天下り、木花開耶姫を妻とする、というのが大筋です。瓊瓊杵尊が木花開耶姫の姉の磐長姫を娶らなかったために、父の大山祇神に寿命が短くなるようにされたこと。木花開耶姫が生んだ3人の御子を疑られた姫が無戸室の産屋を焼き、その中で出産したということが主なできごとです。国を治めるために地上に降りたと読める部分もありますが、これと言った為政者としての業績が読み取れません。
日本書紀の瓊瓊杵尊は「神」なので、為政者として何をしたなどということは必要ないのかもしれませんが、ホツマツタヱによるとこれこそが民を統べる者であると納得させられるほどの働きをしているのです。
ホツマツタヱでは登場人物はすべて生身の人間ですが、当然のことながら日本書紀の神代の巻の登場人物はすべて神で、天上から降臨してきます。「天上から降臨」ということを人間の行為としてとらえると、遥か遠い所、すなわち海の向こうから来たというように考えることができるように思います。瓊瓊杵尊が九州の高千穂の峰に降臨したということから、海外、多分中国の長江辺りから九州に渡ってきた人々が次第に勢力を得てスメラミコトの家系を形作っていったというように推測することもできます。
なぜ長江辺りから九州に渡ってきた人々と考えるのかと言うと、田家康著「気候文明史」(日本経済新聞社)に次のようなことが書いてあるのが手掛かりとなりました。同書136ページ「文化の中心は西日本へ: 弥生系渡来人と水田農耕」より一部抜粋します。
中国では2800年前から、年平均気温で現在よりおよそ1度から1.5度低い、寒冷な時代に入った。アジア大陸の内陸部が乾燥化、寒冷化したことで、生活基盤を失った遊牧民族が南下し、春秋戦国時代と呼ばれる動乱の一因を作った。北方民族の侵入により、紀元前473年には呉が、また紀元前334年には越が滅亡し、長江文明はその継承者を失った。難民の一部は朝鮮半島や日本に渡ったと考えられる。大陸で帆船が建造され、春秋戦国から漢代にかけて、少数の集団ながら何度も弥生系渡来人が日本に移住した。春秋戦国時代から漢代を、およそ紀元前770年頃から紀元後200年頃とすると、ホツマツタヱから導き出した私の年表ではニニキネが為政者として活動した時代が紀元前160~140年頃となっており、私の説と矛盾しません。さらに、田家康氏は次のように述べています。
弥生系渡来人は、水稲(温帯ジャポニカ)と水田耕作の技術を携えて日本に移住した。最古の水稲の花粉は唐津市菜畑遺跡にある焼畑から発見されており、放射性炭素による年代測定では紀元前8世紀と特定される。最初に水田農耕がおこなわれた跡は、菜畑遺跡と福岡県の板付遺跡で紀元前6世紀の地層から発見されたもので、板付遺跡にある水田跡では畦畔・排水施設が整備され、稲作を行う水田として完成の域に達している。弥生系渡来人の中から、このように水田稲作を進める指導的・中心的な立場に立ち、為政者となっていった家系のニニキネも、水田稲作のさらなる普及・改良に力を注いだのだと私は考えます。
ホツマツタヱにもコノハナサクヤ姫との出会いや姉のイワナガ姫を娶らなかったこと、コノハナサクヤ姫が生んだ3人の御子を疑い、姫が無戸室の中で出産したということも、さらにその後の顛末も書かれています。ですが何より日本書紀には一言も触れられていない、水田稲作の普及・改良に情熱を傾け、民を思う「為政者としてのニニキネの姿」がホツマツタヱには詳しく書かれているのです。
ホツマツタヱのニニキネ尊
ホツマツタヱでは、ニニキネは7代目タカミムスビ(タカギ)の娘タクハタチチ姫とオシホミミの間に生まれ、兄にクシタマホノアカリがいます。ホノアカリは父オシホミミより十種の宝を受け、ニニキネはアマテルカミより三種の神宝を授かり、二人が同時期に皇位を継いでいます。これが神武天皇(カンヤマトイハワレヒコ)のヤマト平定の話につながるのです。
21綾冒頭の記述から、二代目大物主のクシヒコはニニキネの臣として仕えていることが分かります。このクシヒコ、絵にかいたような剛直者で、ホノアカリの臣でしたが、ホノアカリに愛想を尽かして臣の座を蹴っているのです。クシヒコの親の初代大物主クシキネは出雲を拓いた人ですが、権勢を誇示したため津軽に国替えさせられてしまいます。ですが、出雲でも津軽でも為政者としての手腕は高く評価されました。ニニキネはクシキネの業績にならって、田を拓くため新治に宮を建てました。クシヒコはその宮造りを計画指揮しています。このように、ホツマツタヱにはニニキネが為政者として第一歩を踏み出すところから書かれています。そして、ニニキネはムヨロトシ(直訳すれば「6万年」ですが、私は「長い年月」としています)新治で水田を開拓し、またムヨロトシ筑波で、さらに二荒(日光)でムヨロトシ過ごし、再び新治に戻ります。このようなニニキネを「ヰツヲヲカミノ コトオオイカナ (ヰツ大神(ニニキネ)の業績のなんと立派なことであろう。) 」と称えています。
ニニキネ尊の立派な業績とは
24綾の冒頭に次のようなことが書いてあります。「ニニキネは新治で新田開発を進めていたが、民が増えるほどには田は増えず、食糧が足りなくなった。高い土地にある田は雨が降らない年は稲穂が実らない。上流の水を懸桶で引いたが壊れた。そこで井堰を造って宮川の上流の水を引き、5年も経ずに稲が実るようになった。」このように水田稲作の普及・改良の様子がかなり詳しく書かれています。アマテルカミが国中に広めるようにと詔を下したと書かれていることからも、この時期に水田稲作が広く普及したことがうかがえます。 さきにニニキネがアマテルカミより三種の神宝を授かり、皇位を継いだと書きましたが、それはこの、ニニキネが水田稲作普及の旅に出る時でした。アマテルカミがいかにこのことを重視していたかが分かります。
前出の田家康氏が「日本列島に水田が広がる紀元前4世紀から紀元1世紀にかけて、「弥生暖期」ともよばれる温暖化傾向になり農業生産力が大幅に向上した。」(「気候文明史」137ページ)といっていることとも重なり、ニニキネという人物が水田稲作の普及・改良を進めたということは史実ではないかと思われるのです。日本書紀ではそれが「稲の神」となってしまったのです。
水田稲作普及の様子は24綾と25綾に次のように書かれています。
- 〇「西ノ宮に行った。そこで、まずカンサキに大きな井堰を掘った。」、「クマノと万木野に田を拓こうとオオタとミシマに井堰を築かせ、川を掘らせた。」などと、行く先々で灌漑工事を勧めた。
- 〇 サルタヒコに、三上山の麓に井堰を造らせ、その地での仮宮を「瑞穂の宮」と名付けた。
- 〇 ハラミ山(富士山)で「裾野は広い。水を引いて、裾野を田にせよ」と、裾野に水を引く井堰を掘らせ、ハラミ山の峰に降る雪は湖の水となり、流れの末は多くの里の田となって、あまたの民を潤した。 今日の富士五湖以外の名もあり、実際にはそれらすべての湖に堰を造り、灌漑したとは思われませんが、この地の湖から田水を引き、水田稲作を広めたと私は考えます。 こうしてやっとニニキネは正式に即位します。
- 〇 ニニキネの右の臣の大物主コモリも日高見や佐渡、越の国等の井堰を造った。その間、祖父のオホナムチは富士のすそ野の開拓を知り、「我は同じように、新田を拓いてきたけれど、このようなことは知らなかった。ニニキネ尊は真に世の中を良くする君である。」と驚嘆している。
- 〇 近江でも新田開発を進め、「ミソロ池」(現深泥池(ミドロイケ、ミゾロイケ)か?)などのため池の整備も行った。〇そのころ津軽に国替えになったオホナムチも、水田用の溜池を造り、岩木山の麓に広大な農村を拓いた。〇アマノコヤネも三笠山の麓に農地を拓いた。
- 〇 イフキはアメヤマに、ニニキネを見習って田を拓いた。
- 〇 アスカヲキミは香久山で、ハセ川から水を引いて一帯に田を拓いた。
- 〇 オオヤマスミはアスカ川を手本にして相模の小野に新田を拓いた。
上記のようにニニキネやその臣達等による新田開発ラッシュとでも言うべき状態で、一層豊かな年が長く続いて、稲が豊作で民は安心して暮らすことができたということでした。
ここからは25綾の話になりますが、その後も、山陽や山陰地方に出向き、井堰や堤を築いて新田を拓いたり、安芸では禿山に植林を勧めて、十年も経つと山は木が繁り、田の水も絶えることなくその国が豊かになったという話も続きます。
また、筑紫が治まらなくなったとき、ニニキネはその原因が食糧不足と知ると、「筑紫は食糧が足りていないのか。それならば行ってみて田を増やそう。」と、自ら筑紫へ出向きます。そして筑紫の国の隅々まで巡り歩いて井堰や堤を築き、新田を拓く計画を練りました。筑紫の人々の接待にも出向かず、ニニキネは一日中働いて、月が煌々と輝くまで仕事に励み、3年の歳月を要して井堰や堤を造る作業を終えたということです。
今日、瓊瓊杵尊を祭神としている神社では、その神格は「稲穂の神、農業神」でご利益は五穀豊穣や畜産などとされています。その根拠は日本書紀神代下の天孫降臨の「一書」に、天照大神が、天忍穗耳尊が降臨する時、「以吾高天原所御齋庭之穗、亦當御於吾兒。(わが高天原にある斎庭の稲穂(神に捧げる神聖な稲穂)を、わが子に与えなさい)」とあることとされています。私にはなんか貧弱な根拠のように思われますが、ホツマツタヱの記述を読めばニニキネが「稲穂の神、農業神」とされることが十分納得できるのではないでしょうか。
人間ニニキネ尊
ニニキネの話はこれだけではありません。ホツマツタヱにも日本書紀にもコノハナサクヤ姫との話は書かれています。ホツマツタヱでのニニキネの唯一の減点対象ですが、それでもコノハナサクヤ姫と気持ちが通じ合うまでが切々と綴られています。余談ですが、そもそも一介の臣である大山祇神が天孫の寿命が短くなるようにするという話もおかしいけれど、ホツマツタヱではイワナガ姫を会わせた妻をオオヤマツミは叱責しています。
晩年、妊娠しているトヨタマ姫が産屋でしどけない姿で寝ているのを皇子のホオデミがのぞいてしまった出来事もで、ニニキネは葵の葉と桂の葉を示し、龍君の例えで二人を諭すという人間的な情を示しています。そして、余命短くなってニニキネはホオデミに「空に日や月が照っているが、もし日や月が照らなければ民は冷害に苦しむ。地にいる君の政が悪ければ民は苦しむ。政はアマノコヤネと大物主の補佐を得て治めよ。宮の中を治めるのはミホツ姫に任せよ」と遺言を遺し、高千穂の峰で生涯を閉じます。
ホツマツタヱにはニニキネが為政者としても人間としてもなんと豊かに、書かれていることでしょう。