1 ホツマツタヱから天皇の在位年を探る

未魁の新説異説

1 ホツマツタヱから天皇の在位年を探る ー 古代史年表を作る ー

古代史確定の第1の指標は「紀元前60年に神武天皇即位」

 まず、「ホツマツタヱから推測した天皇即位年による古代史年表」をご覧いただきたい。「年表」と言っても、ほとんど「誰が即位して誰が崩御した」の羅列です。しかし、いま知り得る古代史年表は継体天皇以前は不確かで、日本書紀の記述をもとに「春秋年」や「2倍年」、「2倍年と4倍年混合」、「10年を基礎にして計算」などの諸説から導き出されたものがほとんどで「誰が即位して誰が崩御した」さえ確たるものはありません。しかも「欠史八代」や「神武以前は神で、神武は神から人への中間にあるもの」などという神話と人の歴史をつなげて見る考え方が大勢を占めており、歴史としての「年表」が成り立たない状態のように思います。

 最近の研究では水稲稲作は紀元前1000年頃には始まっていたようです。神武天皇(ホツマツタヱではカンヤマトイハワレヒコですが、本稿では便宜上漢風諡号で表記し、〇〇天皇と表記します)即位を私は紀元前60年と考えます。通説での紀元前660年としても、神武天皇以前の神様が農耕をおこない、その遺跡を残したことになってしまいます。少なくも神武天皇以前の系譜の分かる「神様」は人間だったはずです。考古学上、人の営みが遺されている時代に神様がいたというのは、どう考えても変です。日本書紀の「神代」を単なる神話とせず、人の世の話として読み解く必要があるのではないでしょうか。

 では、なぜホツマツタヱから「神武天皇即位が紀元前60年」と言えるのでしょうか。
 ホツマツタヱでは年を表すのに、年表の初めの方に書いたような「キアヱ暦」が使われています。また、中国でも同じ60年周期の「干支」が使われています。このことから我が国が中国の干支を手本にしたのではないかと考えました。
 この頃、漂流などの何らかの理由で渡来した中国人は複数いたと思われますが、このような文化をもたらしたと考えられる人物は、始皇帝に仕えた方士、徐福以外に該当しそうな人は見当たりません。実際、中国の始皇本紀に徐福が出航(2回目)したのは紀元前210年と書かれています。それは干支では辛卯の年となります。

 それでは、徐福の渡来が「神武即位が紀元前60年」とどのような関係があるのでしょうか。
 和歌山県の熊野速玉大社は主祭神が熊野速玉大神と言い、徐福神輿,徐福灯籠,徐福の馬の鞍(レプリカ)など徐福と関係のあるものが保存されています。また、ホツマツタヱにはイサナギ・イサナミの仲立ちにかかわった「ハヤタマノヲ」という人物が出てきます。わたしはその「ハヤタマノヲ」が速玉大神として祭られたと考え、他ではあまり見られない徐福にかかわる保存物との関連から「ハヤタマノヲ」は徐福であると考えます。とすると、徐福はイサナギ・イサナミの結婚と関わりを持っていることになり、アマテルの誕生の「キシヱ」は「徐福2回目渡来の紀元前210年、辛卯の年」の3年後の紀元前207年「キシヱ」と考えられます。また、ホツマツタヱには「ネシト」の年にウガヤフキアワセズがタケヒト(神武天皇)に譲位した後崩御し、翌年暦が改められたことが書かれています。
 アマテル誕生を紀元前207年として、オシホミミ、ニニキネ、ホオデミ、ウガヤフキアワセズ、タケヒトまでの各事績の書かれたキアヱ暦を西暦にあわせて大まかに計算すると、アマテル誕生から神武天皇即位までがほぼ150年となります。これにより、神武即位の年は、干支では「辛酉」(日本書紀)、「キアヱ暦」ではサナトなので、「神武天皇即位は紀元前60年」以外ではないと推測されるのです。

 これで指標の一点が定まりました。

古代史確定の第2の指標は「紀元後507年に継体天皇即位」

 「神武天皇即位は紀元前60年」が一つ目の指標になりました。距離(ここでは歴史の流れ)を確定するには2点が定まることが必要ですが、もう一つの指標は「継体天皇即位は紀元後507年」という歴史家も認めている確かな指標があるので、これを使います。 この二つの指標を基に紀元前60年から紀元後506年までの天皇の在位期間を未魁流に算出したのがこの年表です。

加算年という考え方

 日本書紀でもホツマツタヱでも、神武天皇から仁徳天皇まで異常とも思われる長寿の天皇がいます。私の算出した年齢とも大きくかけ離れています。これは何らかの方法で年齢を水増し(加算)しているのではないかと考えました。
 手掛かりとしてホツマツタヱの記述から天皇の事績を抜き出してみると、10年以上も何の事績も書かれていない箇所があったり、年齢的に不自然な事項があったりして、そこで齢が加算されているのではないかと思われるような箇所が見受けられます。そのような個所は、基本的には10年単位で加算されているのではないかと見て、その期間を引いて年齢を出してみました。分かりにくく、にわかには納得できないものもあると思いますが、なるべく原則に沿いながら妥当な年齢になるように努力した結果です。

天皇の在位年数を算出する

 天皇の在位期間は、日本書紀には書かれていない「皇太子の誕生の年」がホツマツタヱに書かれているということを算出する手がかりにしました。皇太子の誕生から世継ぎ皇子になるまでの期間は天皇が確かに在位していたはずです。そして、天皇と言えども勿論人間ですから、みんな同じだとは言いませんが、「即位後間もなく皇子をもうけ、崩御もしくは退位間近に世継ぎ皇子を決める」ことが多いのではないかと考え、多少の誤差はあっても大きく違うことはないのではないかと思います。そこで基本的には、皇太子が生まれてから世継ぎ皇子になるまでの年数を天皇の在位年数と見なしました。中にはこの原則ではなく、例えば2代綏靖天皇、3代安寧天皇、4代懿徳天皇は加算年を10年と仮定して算出するなどしたところもあります。
 このようなやり方で、ホツマツタヱに続けて、日本書紀の記述から武烈天皇までの各天皇の在位年を出すと、紀元前60年から紀元後506年までの間に、各天皇の在位年数が無理なく入りました。しかし、提示した年表はあくまでも「天皇は崩御、または退位を迎えるにあたって皇子を世継ぎ皇子にしているのではないかという仮定」を原則にして算出した仮説です。ですが、後に述べるようにいくつかの歴史的な事実と符合するようなところがあるように思われ、試案としては面白い年表ができたのではないかと思っています。

在位年数の具体例

第1代 神武天皇(カンヤマトイハワレヒコ)-実在位年数17年-

  ホツマツタヱに書かれた事績
  皇子タギシミミと共にヒムカへ向かう(45歳)
  ヰソスズ姫を后とする
元年 東遷し、即位(52歳)
主だったものに論功行賞を与える
サミダレ(梅雨?)40日続く
ミヲヤカミを祭る
タカクラシタが越を平定して戻る
20 タカクラシタを再び越へ遣わす
24 イスキヨリ姫を妃とする
25 ヰソスズ姫、皇子カンヤヰミミを産む
26 ヰソスズ姫、皇子カヌカワミミを産む
27 ヤヒコにユリ姫(イスキヨリ姫)を賜う
28 ホホマの丘に行幸(アナニヱヤ…)の歌
42 カヌカワミミ、世継ぎ皇子になる(17歳)
76 崩御 (127歳)

 上記の年表の中で、異様に長く事績の間隔のある42年から76年に30年の崩御時の加算年(架空の期間)があるのではないかと見ました。カヌカワミミが世継ぎ皇子になった年に神武天皇が崩御しましたが、神武天皇の崩御後、タギシミミが勝手に政を執った期間が4年ほどあったので、その4年も入れ、34年を加算年としました。また、カヌカワミミが生まれる前の25年も加算年としました。それは、ヰソスズ姫が后となって25年も経って皇子が生まれるということはあり得ないと思われるからです。そこで、神武天皇即位前に皇子カンヤヰミミを産んだ妃のヰソスズ姫が后に選ばれ、即位間もなくカヌカワミミを産んだと考えました。そうすればこの25年の加算はあり得るということになります。この25年に含まれる出来事は26年から42年までの出来事を配したものと考えることができます。
 すべての加算年数を合わせると、神武には59年の加算があったことになります。そうすると、実年齢は127-59=68、すなわち68歳ということになります。また、実在位年数は76-59=17、すなわち17年ということになります。

第5代 孝昭天皇(カヱシネ 諱ミルヒト)-実在位年数25年-

  ホツマツタヱに書かれた事績
元年 即位(31歳、ホツマツタヱの年齢、以下同じ)
29 ヨソタリ姫、后になる
31 オキツヨソ、ケクニ臣になる
45 皇子オシギネ生まれる
49 皇子オシヒト生まれる
68 オシヒト、世継ぎ皇子になる(20歳)
83 崩御(113歳)

 この例では加算年数が見えにくいので、まずオシヒトが世継ぎ皇子になった年齢(20歳)をもとに、天皇の在位年数を20年と仮定します。   68年から83年の15年は、天皇崩御時の加算年を10年と見て、5年は孝昭天皇が在位していたと考えます。仮定した在位年数20年にこの5年が加わるので、オシヒトが25歳のとき天皇崩御となり、天皇の実在位年も25年となります。
 加算年は、83年から実在位年数の25を引き、58年となります。58年もの加算年ということになると、元年から皇子誕生までの48も加算年だったということになります。孝昭天皇が即位してから29年後に后が決まり、16年間も皇子が生まれなかったとすると、その時天皇は76歳となり、ヨソタリ姫は15歳で妃となったようなので30歳での出産となる。これはあり得ないと思います。そこで、ヨソタリ姫は孝昭天皇の即位前に妃となっていて、その間に皇子オシギネが生まれ、その後后となったと考えてみました。それらを即位後の出来事として書いてあるのではないかと考えました。

第9代 開化天皇(ワカヤマトネコヒコ)-実在位年数21年-

  ホツマツタヱに書かれた事績
元年 即位(51歳)
7 イキシコメ、后になる
8 皇子ヒコイマス生まれる
10 皇子ヰソニヱ生まれる
13 ミマツ姫、生まれる
28 ヰソニヱ世継ぎ皇子になる(19歳)
60 崩御(111歳) (ヰソニエ21歳)

 これも前例同様加算年数が見えにくいので、ヰソニエが世継ぎ皇子になった年齢(19歳)をもとに、天皇の在位年数を19年と仮定します。
 28年から60年の32年は、天皇崩御時の加算を30年と見て、2年は開化天皇が在位していたと考えます。仮定した在位年数の19年にこの2年が加わるので、ヰソニエが21歳のとき天皇崩御となり、天皇の実在位年数も21年となります。
 加算年数は、60年から実在位年数の21を引き39年となります。 崩御時加算の30年との差の9年は、ヰソニエが 生まれる前の9年間を即位後の出来事としたことによる加算年と考えます。
 ホツマツタヱでは、翌年の皇子ヰソニエの年齢は52歳(世継ぎ皇子になった年齢19年+その後2年+加算年30年+翌年1=52)で、崇神天皇は52歳で即位したことになるのです。

第10代 崇神天皇(ミマキイリヒコ 諱ヰソニヱ)-実在位年数20年-

  ホツマツタヱに書かれた事績
元年 即位(52歳) ミマキ姫、后となる(11歳)
3 磯城ミヅカキに遷宮 
4 三種神宝を恐れ、鏡と剣を宮より出す
5 疫病流行る
6 民逃散、アマテルカミとオオクニタマの宮遷し
7 モモソ姫、湯立する
8 神酒を大三輪の神に奉る
9 カシマとタタネコが魂返しをする
10 オオヒコ、「イリヒコアワヤ」を聞く
11 ハシヅカで緒解く祭りをする
12 ハツクニシラスミマキの代と詔
26 皇子トヨキヒコ生まれる
29 皇子ヰソサチ生まれる
38 チチツクワ姫生まれる
40 皇子イカツル生まれる
48 ヰソサチ世継ぎ皇子になる(20歳)
58 ツノガアラシト、カラ国より来る
60 出雲の神宝を献上させる
62 ヨザミなどの池を掘らせる
65 ミマナからソナカシチが貢を献上
68 崩御(119歳)

 前例にならい、ヰソサチが世継ぎ皇子になった年齢(20歳)をもとに、天皇在位年数を20年と仮定します。
 崇神天皇の時代の出来事は多く書かれており、一見崩御時加算がないように見えます。しかし、119歳は信じ難く、後に漢風諡号に「崇神(神をたっとぶ、あがめる)」と付けられた天皇に、崩御時加算があってもよいのではないかと考えました。そこで目を付けたのが、48年から68年の20年。ヰソサチが世継ぎ皇子になってから20年も崇神天皇が在位し続けたとは到底考えられないので、間もなく天皇の譲位か崩御があったと考え、この20年を崩御時の加算年と考えました。また、例えばヰソサチが29年に生まれたとすると、29年間も皇子が生まれなかったことになり、ヰソサチ誕生の時は崇神天皇81歳、ミマキ姫40歳となり、ヰソサチが世継ぎ皇子になったとき、崇神天皇は100歳となります。これもあり得ないので、元年から皇子誕生までの28年も加算年で、前例同様、崇神天皇も即位と結婚がほぼ同時期で、間もなく皇子が生まれたと考えざるを得ません。すると、加算年は48年になり、在位年数は仮定した20年となります。

第12代 景行天皇(ヤマトオシロワケ 諱タリヒコ)-実在位年数26年-

  ホツマツタヱに書かれた事績
元年 即位。(81歳)
2 双子の皇子、ヲウス(諱モチヒト)、コウス(諱ハナヒコ後のヤマトタケ)生まれる。
4 ヤサカイリ姫をウチ妃とする。
5 皇子ワカタリヒコ生まれる。
12 ヱトオコ・トトオコ姉妹をヲウスが密かに召す。
景行天皇熊襲征伐へ行く。
19 景行天皇纏向の宮に帰る。
27 コウス26歳(日本書紀は16歳)で熊襲征伐に行く。
コウス、クマソタケルより「ヤマトタケ」の名を贈られる。
28 ヤマトタケ纏向に帰る。
40 ヤマトタケ、ホツマへ蝦夷征伐に行く。
(日本書紀、先代旧事本紀ではヤマトタケ没。30歳)
41 ヤマトタケ没。(40歳)
44 ヤマトタケの葬送。
46 ワカタリヒコ世継ぎ皇子になる(42歳)
53 ヤマトタケの跡を巡る。
54 日代の宮へかえる。
56 オオタタネコがホツマツタヱを献上。
60 崩御(141歳)
(ホツマツタヱには崩御が書かれていない。日本書紀、先代旧事本紀を参照した)

 まず、ワカタリヒコの年齢42歳を天皇在位年数と仮定します。
 27年の「コウス26歳で熊襲征伐に行く」というのは、コウスが髪を総角にしていたことから、日本書紀の「コウス16歳で熊襲征伐へ行く」が正しいと考え、26歳というのは、ヤマトタケのために10年の加算年を付けたためと考えました。また、コウスが蝦夷征伐に行く時、「ニシムケマナクマタヒガシ」(西の国(熊襲)を平定して間もなく、また東の国(蝦夷)へ)と言っていることから、28年から40年の12年も間があるのは長過ぎると考え、ここにもヤマトタケへの10年の加算年があったのではないかと考えました。ヤマトタケの死を悼む気持ちから、このような加算年が付けられたのですが、それは景行天皇の期間の中で書かれているので、天皇の加算年ともなっています。
 コウスが帰還後2年で出発したとして、この加算年も10年としました。合わせて加算年は20年となるので、ヤマトタケは20歳で没したと考えられます。その時のワカタリヒコの齢は17歳となります.ワカタリヒコが世継ぎ皇子になった齢は42歳となっていますが、ヤマトタケへの加算年20年を引くと、ワカタリヒコは22歳となります。ワカタリヒコを世継ぎ皇子とした46年から崩御した60年までの14年間の10年を天皇の崩御時加算と考え、この4年間も景行天皇が続けて在位していた期間と考えます。すると、ワカタリヒコはその間も世継ぎ皇子でいたのですから、皇子の齢は26歳となります。これより景行天皇の実在位年数は26年となります。
 加算年数は、60年から26年を引き34年となります。上記の計算では加算年は30年となりますが、残り4年はワカタリヒコが生まれる前の、景行天皇即位前の事績を即位後に入れた4年間と考えます。


 これで、ホツマツタヱに書かれた天皇の期間は終わりますが、このようなやり方で、ホツマツタヱに続けて、日本書紀の記述から武烈天皇までの各天皇の在位年を出すと、紀元前60年から紀元後506年までの間に、各天皇の在位年数が無理なく入りました。しかし、提示した年表はあくまでも「天皇は崩御、または退位を迎えるにあたって皇子を世継ぎ皇子にしているのではないかという仮定」を原則にして算出した仮説です。

2016年1月17日まで掲載していた雄略天皇の即位年に関する箇所は、日本書紀を精査したところ、関連する年の記述に矛盾がありましたので削除しました。