6 「神武東征」の記述から見える「高地性遺跡」と「古大阪湾」
(1)高地性遺跡について
神武東征に「高地性遺跡」が書かれている?
まず、ホツマツタヱ29綾「タケヒト、ヤマト討ちの綾」と日本書紀の「神日本磐余彦天皇 神武天皇」の該当箇所を読み比べてみます。原文どうしで比べるべきですが、読みやすいように、日本書紀は宇治谷孟著『全現代語訳日本書紀』、ホツマツタヱは私の訳で比べます。引用が少し長くなりますがご勘弁ください。
【 日本書紀 】
神日本磐余彦天皇が四十五歳になられたとき、兄弟や子供たちに言われるのに「(中略) 天孫が降臨されてから、百七十九万二千四百七十余年になる。しかし遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって境を設け相争っている。さてまた塩土の翁に聞くと「東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐船に乗って、とび降ってきた者がある」と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいだろう。きっとこの国の中心だろう。そのとび降ってきた者は、ニギハヤヒという者であろう。そこに行って都をつくるにかぎる」と。(中略) その年冬十月五日に、天皇は自ら諸皇子・舟軍を率いて、東征に向かわれた。速吸之門(豊予海峡)においでになると、一人の海人が小舟に乗ってやってきた。天皇は呼び寄せてお尋ねになり、「お前は誰か」といわれた。答えて「わたしは土着の神で、珍彦(ウズヒコ)と申します。曲の浦に釣りにきており、天神の御子がおいでになると聞いて、特にお迎えに参りました」という。また尋ねていわれる。「お前は私のために道案内をしてくれるか」と。「ご案内しましょう」という。
【 ホツマツタヱ 】
タケヒトが四十五歳になった時話した。 「(中略)「昔の祖先のタカミムスビ尊が日高見を拓いてから(略)明るく治まった年が長く続いた。百七十九万二千四百七十穂過ぎるまでも至る所に、国を栄えさせた優れた君がいたので、村々も乱れることなく天下の道理が行き渡った」。ところが世の中に流行ってきた歌があった。「則を下しに来てください、ホツマの道の。則を広めに、天君も磐船に乗って。」シホツチの翁が、タケヒトにヤマトの国へ行くようにと勧めて「ニギハヤヒ君がいけないのです。タケヒト君が行って騒ぎを鎮めなければならないでしょう」と言うと、兄皇子達はまったくその通りだと同意し「以前の世嗣文の件の始末をつけなくてはならないだろうから、君は速やかに御幸した方がいいでしょう」と言った。アスス暦キミヱ、十月三日、タケヒト自ら一同を率いて出立した。一行の乗った船が速吸瀬戸に差し掛かった時、海人の小舟が近づいてきた。アヒワケが、誰かと聞くと「国守のウツヒコです。海に釣り船を出してお待ちしていて、君の御船が来られると聞いたので、御船をお迎えに来たのです」。「案内してくれるか」と言うと、「ハイ」と答えた。
神武東征は事前に伝わっていた
まず第一に考えたいのは、神武天皇(タケヒト)が東征に出かける理由です。日本書紀では「東の方に天下を治めるよい土地があるが、ニギハヤヒが都を作ろうとしている。そこに行って都をつくるにかぎる」と塩土の翁がたきつけます。ホツマツタヱでは、ヤマトの国に騒ぎがあり、「ホツマの道の則を下しに来てください」(世の乱れを正してほしい)という人々の声があがっていたというように書かれています。そして、シホツチの翁は「ニギハヤガ イカンゾユキテ ムケザラン」と、ヤマトを治めているニギハヤヒがいけないので行って騒ぎを鎮めるように勧めているのです。どっちが良いの悪いのという問題ではありませんが、どうも日本書紀の記述からは東征の大義が感じられません。大義のない東征が事前に「東の方」まで伝わっているかはちょっと疑問です。
次に、迎える場面の珍彦(ウツヒコ)の言葉の微妙な表現の違いを比べてみます。日本書紀は、原文では「釣魚於曲浦。聞天神子来、故即奉迎。」と書いてあるので、「曲浦で釣りをしていたら、天神の御子が来ると聞いた」と訳せ、「珍彦がたまたま釣りをしていた」と解釈できます。ホツマツタヱは「ワダノツリニテ キクミフネ ムカフハミフネ」とあり、「ツリニテ」は「釣りをしていたら」とするより「釣り船で」と訳す方がよいように考えます。ということは、ウツヒコは釣り船に乗ってタケヒトの船を待ち構えていたと考えられるのです。そもそもウツヒコはたまたまいた釣り人ではなく、アマテルカミ、ニニキネの子孫なのです。大義あるタケヒトの東征が事前に伝えられていたと十分考えられます。この二か所の違いだけでなく、全文を読み比べていただくと、ホツマツタヱの方がタケヒトの東征の状況がよく分かるように思います。
神武東征はどのように伝えられたか
このようにホツマツタヱに沿った解釈をすると、ウツヒコはタケヒト一行が来ることを知っていて水先案内をしたということになりますが、どのようにしてタケヒトが来ることが事前に分かったのでしょうか。何か情報を迅速に知らせる手段があったのではないでしょうか。タケヒト一行が九州から瀬戸内海を通ってヤマト(近畿地方)へ行ったとすると、私は、各地の高地性遺跡、特に瀬戸内海に多い「高地性遺跡」が重要な意味を持っていると考えます。
考古学の第一人者である森浩一氏は『日本神話の考古学』で次のように大変示唆に富んだことを書いています。
その種の遺跡を総称するのに、高地性集落とは言わずに『高地性遺跡』とよぼう。なぜならば、集落を構成するほどの数の住居がなく、見張り場だけ、あるいは遠隔地への狼煙などの手段で信号を送るような、わずかの遺構しか残さない、集落とはよびにくい遺跡をも含むからである。
そこで森浩一氏にならい、そのような一般的には「高地性集落」と言われているところを「高地性遺跡」と呼ぶことにします。また同氏はその年代についても次のように述べています。
高地性遺跡は稲作をする土地よりも30~40メートルの高台になっていて、この遺跡は弥生時代の中期と後期(前1世紀から後3世紀後半に推定しているが、研究者によってはそれぞれ約100年古く見る人もある)に集中して現れ、それ以後はあまり存在しなくなる、というものである
ホツマツタヱではアマテルカミが生まれる前の紀元前3世紀頃にはオモダル・カシコネやイサナギ・イサナミなどが全国を巡っているので、「約100年古く見る」というのもあながち間違いではないかもしれません。
さらに、「神武東征」に関連して、同氏は結論こそ示していませんが、考古学と古代史が結びつく興味深い視点を示されています。
さて、私たちが問題にしている神武東征の物語(イワレ彦の物語)は、南九州から戦士を乗せた船団が海路、大分、福岡、広島、岡山を経て近畿に入り、最後に大和の諸地域の支配者を屈服させ、建国をしたというストーリーである。この物語とまったく関係がないのか、あるいは多少とも関係があるのかは、さらに時間をかけて検討されることであるが、イワレ彦の物語とほぼ同じ舞台で、高地性遺跡がつぎつぎと発見されて、今日に至っているのである。
これで、”なぜウツヒコがここに突然現れたのか”という私の疑問が氷解したのです。このように見ていくと、イワレヒコ一行の動静は、高地性遺跡などの連絡手段を使いいち早く先々へ知らされた、すなわち通信のシステムができていたと考えられるのです。それは事が起きてから構築されるものではなく、平時から運用されていなければ役立つものにはならないと考えます。
高地性遺跡は通信施設
ホツマツタヱによれば、ニニキネやウガヤフキアワセズや徐福など多くの要人たちが度々瀬戸内海を行き来していたと考えられ、そのような要人には警護や見張り、先々への連絡などにも高い場所からの見晴しが必要だったと思われます。ウツヒコも多分先に書いた高地性遺跡と言われる場所で待機していて知らせが来るのを待っていて、案内のために海に出たのでしょう。高地性遺跡は要人を守ったり、情報を発信したり、案内したりするための場所だったと考えます。そして「イワレ彦の物語とほぼ同じ舞台で、高地性遺跡がつぎつぎと発見され」ていることを考えると、高地性遺跡は多分紀元前3世紀には存在し、一番頻繁に使用され、数も多かったのがタケヒトの時代の紀元前50年頃だったとも考えられます。
高地性遺跡はその後、室町時代に山城として使用されたようです。室町時代の山城を発掘していると、いつの間にか弥生の高地性遺跡に変わっていることがあると森浩一氏も書いています。そのために、弥生時代にも山城として使用されていたのではないか、弥生時代は戦国時代だったのではないかという説も現れます。しかし、高地性遺跡は微高地で見晴らしのよい所にあるといわれていますので、弥生時代には戦争に使われたのではなく、イワレヒコなどの要人が通る時に必要な施設だったのではないかと思います。そしてホツマツタヱ24綾では、ニニキネの時代にアマノコヤネがカスガの国に新田を拓く場面で「アマノコヤネモ カスガクニ トブヒノオカニ ヤマトカワ ホリテツクレル ミカサヤマ」と書かれています。それは奈良市春日野の別称として今に残り、飛ぶ日の設備があったと言われています。平時の場面に描かれた「トブヒノオカ」は軍事施設というより通信施設と考える方が妥当なように思われます。
(2)古大阪湾について
神武天皇(タケヒト)の見た古大阪湾
いよいよ神武天皇(タケヒト)はヤマト(近畿地方)に向かい、そして浪速より川を溯ります。大阪湾は古代より姿を変えてきて、現在の大阪市辺りはかつては湾や潟と呼ばれる水域でした。神武天皇(タケヒト)が通った頃の古大阪湾の様子は次のように書かれています。
【 日本書紀 】
「戊午の年、春二月十一日に、天皇の軍はついに東へ向かった。舳艫(ジクロ)相つぎ、まさに難波崎(ナニハノミサキ)に着こうとするとき、速い潮流があって大変早く着いた。よって名づけて浪速国(ナミハヤノクニ)とした。また浪花(ナミハナ)ともいう。今難波(ナニワ)というのはなまったものである。三月十日、川をさかのぼって、河内の国草香村(日下村)の青雲の白肩津(シラカタツ)に着いた。
【ホツマツタヱ 】
「ミフネユク アススヰソヰホ キサラキヤ ハヤナミタツル ミツミサキ ナモナミハヤノ ミナトヨリ ヤマアトカワオ サカノボリ カウチクサカノ アウエモロ」(また船で出発した。それはアスス暦五十五穂、二月であった。潮の流れが急なミツ岬を通り、浪速という名の港からヤマアト川を遡って河内日下のアウヱモロの館に着き、戦の準備が整った。)
潮流を利用して河内潟へ
日本書紀もホツマツタヱも多少表現は違いますが、神武天皇(タケヒト)一行は浪速で早い潮流にあい、浪速から川を溯って日下に行ったことは共通しています。その早い潮流とはどんなものだったのでしょう。この出来事は日本書紀で定説になっている神武即位を紀元前660年として考えると、今から2700年ほど前、ホツマツタヱでは2100年ほど前のことになります。「大阪平野のおいたち」(梶山彦太郎・市原実著)によると、3000~2000年前の今の大阪平野は河内潟と言われる時代で、上町台地とその先に延びる砂州で大阪湾と河内潟に分かれていました。ちなみに、現在の大阪市はほとんどその頃の河内湾と大阪湾の上で、大阪城が上町台地の先端、大阪駅は大阪湾の中に位置します。すなわちこの景色の中を航海した神武天皇(タケヒト)一行は大阪湾より、上町台地から延びた砂州と陸地の間を抜けて河内潟に入ることになります。すでにお気づきのことと思いますが、潟の水位は海の干満によって上下し、潟の入り口は潮流が速くなります。一行は満潮時の早い潮流に乗って一気に河内潟に入ったのでしょう。
河内潟に入ってから船はヤマアト川に行きます。日本書紀には「川」とだけしか書かれていませんが、ホツマツタヱには「ヤマアトカワ」と書かれていて、今の大和川と考えられます。そこから川を船で溯ったのか、川沿いを歩いて行ったのかどちらでしょうか。日本書紀の原文では「遡流而上径至河内国草香邑」となっており、多くは「遡流而上」を「遡上」として船で上ったとしているようですが、ここで使われている「径」は「こみち、まっすぐ結ぶ道(広辞苑)」を意味する言葉でもあり、川沿いの道を歩いて行ったとも考えられます。生駒山地と河内潟の間一帯は日下の地であったと思われ、大和川が流れる辺りに日本書紀にある青雲の白肩津(シラカタツ)、ホツマツタヱの河内日下のアウヱモロの館があったのでしょう。
「神武東征」という有名な話も、「高地性遺跡」や「古大阪湾」などという古地理の視点で見ると、通説とは一味違った景色に見えてきませんか。