3 徐福は我が国の古代史に欠かせない人物
ー ホツマツタヱから浮かび上がる徐福の姿 ー
徐福は伝説の人か
みなさんは徐福という人物をどのくらいご存知でしょうか。徐福は、秦の始皇帝に命じられて東方へ不老長寿の仙薬を探しに出かけた方士と「史記」に書かれているが、日本に来たというのは伝説にすぎない・・・という方が多いのではないでしょうか。
でも、北は青森・秋田から八丈島、神奈川、富士山、山梨、静岡、愛知、そして徐福宮のある三重、徐福にまつわる数々の伝承や神社のある和歌山県新宮市、京都、広島、南は高知、福岡、さらに数多くの伝承や神社・遺跡のある佐賀、宮崎、鹿児島と、日本全国に伝承地が残っています。和歌山県の熊野速玉大社には徐福神輿,徐福灯籠,徐福の馬の鞍(レプリカ)など徐福と関係のあるものが保存されているといいますし、徐福の子孫という方も各地におられます。これらのことをどう考えたらよいでしょうか。「伝説」の一言で片づけられないと思いませんか。でも、なんでこんなに各地にあるのか、上陸地と言われる所が青森から九州まで何か所もあるのはかえってヘンじゃないかと疑問も湧いてきます。そこで私は以下のように考えてみました。
徐福の逃亡劇
「秦始皇本紀」によれば、徐福は紀元前219年に、数千人の童男童女(「淮南衝山列伝」では3千人の童男童女と百工と五穀の種)を連れて出航しています。ここで私が注目するのは、徐福は元はと言えば始皇帝に征服された斉国の出身ということです。《面従腹背、徐福は始皇帝に重用されていても、いつかは自立しようと考えていた。用意周到に日本(当時は日本という国名はありませんでしたが便宜的に「日本」とします)への逃亡を計画していた。だから、仙薬を探しに行くのに、わざわざ大勢の若者や技術者や射手、それに食料となる五穀の種などを用意させたのだ。そしてうまうまと平原広沢を得た》 私はそう推理します。
徐福の2回目の出航は紀元前210年ということで、少なくも2回、もしかしたらこれ以外にも配下の者を差し向け、移住のための綿密な計画を立てていたのではないかと思います。紀元前200年頃の日本は水稲農業以前の弥生時代前期と言われていますが、最近の研究では水稲稲作は紀元前千年ほどにまで遡ると言われています。すなわち、ある程度の文化を持っていた国でした。また、ホツマツタヱに描かれているような、人民を大切にする支配層だったことも徐福が永住先に選んだ理由ではなかったかと考えます。それは私の計算による年表ではイサナギ・イサナミの時代です(イサナギ・イサナミは天空にいる神様ではなく、タカヒト、イサコという名を持った実在の人物だったのです)。この事前の渡来で、徐福はその知識や技術などによってヤマトの中枢と深い関わりを持つようになり、筑紫平野辺りを与えられたのではないかと考えます。まさに「平原広沢を得て帰らず」は綿密な計画を立てた逃亡劇だったのです。しかし、船団を組んで出航した徐福の一行は、海流や天候などの様々な状況により途中ばらばらになって、遠くは八丈島や青森まで流され、それぞれの場所から上陸したのでしょう。そこに居つく結果になった者や、九州にたどり着くものなど、様々な運命をたどりながら、徐々に徐福のクニは形成されていったのではないかと私は考えています。
ホツマツタヱに登場する徐福
「ホツマツタヱは何度も読んでいるが、徐福なんてどこにも出てこないぞ!」という声が聞こえてきそうです。その通り、「ジョフク」という言葉では一度も出てきません。でも、私にはどうしても徐福としか思えない人物がいるのです。
それは唐突に登場します。6綾「ヒノカミ ソフキサキノアヤ」に「カナヤマヒコガ ウリフヒメ(金山彦の子のウリフ姫)」と出てくる「金山彦」です。その金山彦は、10綾「カシマタチ ツリタイノアヤ」に「ムカシナカヤマ ミチヒラク カナヤマヒコノ マゴムスメ シタテルオグラ(昔、中山道を拓いた金山彦の孫娘のシタテルオグラ姫)」と書かれています。素性のはっきりしない金山彦なる人物の娘がアマテルカミの妃となり、金山彦の息子のアマクニタマ、その娘のシタテルオグラ姫と息子のアメワカヒコなども中枢に近い所にいたことが分かります。そして、何より「ナカヤマミチヒラク」、すなわち中山道の元になる道を整備したのが金山彦なのです。土木の知識技術を持った工人を指揮した人というと、徐福が浮かんできませんか。
徐福は斉の国瑯邪郡の出身と言われており、かつて瑯邪郡だったといわれる江蘇省連雲港市カン楡県の金山郷に徐阜村(徐福村)という所があるそうです。徐福は始皇帝を裏切って逃亡したのですから、その存在を隠さなければならず、一族は日本の名前を名乗ったのではないでしょうか。徐福は故郷の名前を和風に読み「金山彦」としたと考えます。このように当時としての先端技術や知識を武器に重要人物になっていき、ついには筑後平野一帯に領地を持つに至ったのではないでしょうか。
岐阜県にある南宮大社は主祭神を金山彦命といい、鉱山を司る神とされ、鉱山・金属業の総本宮だそうです。延喜式神名帳には「仲山金山彦神社」と記載されています。そして、この南宮大社は旧社名でもわかるように、中山道にほど近い所にあります。御由緒では天照大御神の兄神だそうですが、時代や場所、存在感などから私には金山彦は徐福だったと思えて仕方ないのです。
九州と徐福
先に書いたように徐福の痕跡は各地に残されていますが、新宮市は神社や上陸の地や徐福公園、さらには「徐福」という地名まであり(もちろんこれは後からつけられたものでしょうが)、知名度は一番かと思います。しかし、先ほど筑紫平野一帯に領地を持ったと書いたように、私は徐福の九州とのかかわりの深さを、ホツマツタヱから感じられるのです。
まず、15綾「ミケヨロヅ ナリソメノアヤ」の本文162からの、アマテルカミが皇子クマノクスヒにした、叔母ココリ姫から聞いた話の「トコタチノ ヤモオメグリテ ニシノクニ、クロソノツミテ カニアタル、ナモアカカタノ トヨクンヌ」というところを見てみましょう。
「トコタチ」はクニトコタチ。クニトコタチと呼ばれる人の時代は、人々の記憶の中の遥か昔からトヨクンヌと呼ばれる人が祖先としてはっきり意識されるようになるまで長く続いたと思われます。この「トコタチ」は2綾の話にあるクニトコタチより何代も時代が下って、各地を拓いた人達の総称として使われたのではないか、そしてその一部がカの国を拓いたのではないかと考えました。文脈からもこの人物は「コロビンキミ」「シナギミ」と呼ばれる人物と思われます。その名前からも大陸から来た渡来人と考えて間違いないでしょう。
「ヤモオメグリテ」からは、はるばる旅をしたこと、「ニシノクニ」から、そこが九州であること、「アカカタ」のアカは西、カタは県(アガタ)というように読むと、九州の特定の場所を指しているのではないかと考えられます。また「クロソノツミテ」は「クロソノツミテ王」と解釈する向きもありますが、「ツモル・ツメル」と動詞の語尾変化のような名前はどうもしっくりいきません。私は動詞の「積みて」と考え、「増やすこと」と考えてみました。「クロ」は(農作に適した)黒い土。「ソノ」は園、すなわち農地。すると概ね「農業に適した黒土で農地を開拓した」という意味に思われませんか。「トコタチ」一行はここで農地を開拓したのでしょう。
次に15綾の「ヤマノミチノク サツケマス、ヨロコビカエル ウケステメ、コロビンキミト チナミアイ、クロソノツモル ミコウミテ、ニシノハハカミ マタキタリ、コロヤマモトハ オロカニテ、シシアジタシミ・・・シナキミイデテ チヨミグサ タヅヌトナゲク」というところに注目します。
ヒタカミの君のタマキネ(タカミムスビ、トヨケ)に「ヤマトの世を治める奥義」を学び、喜んで帰る「ウケステ姫(メ)」は読んで分かるように「コロビンキミ」とは睦まじい夫婦です。ウケステ姫は家系を捨てて国際結婚をしたことが「ステ」という言葉から分かります。そして「クロソノツモルミコ」を産みます。先ほども書いたようにこれを名前として「クロソノツモル皇子」と解釈するより「農地を拓く」とした方がマシに思われます。そして、むしろこれは「クロソノ(農地)にいっぱいの子」とも読み取れ、それは徐福が大勢の若者を連れてきたことを表していると考えられるのです。「ニシノハハカミ」はまさに西の国、九州の徐福一族の「母」であるのです。ついでながら、多くの方が「ニシノハハカミ」すなわち「ウケステメ」を西王母とし、「アカガタ」を赤県神洲として中国としています。「奥義」をもって帰った「ウケステメ」が間もなく「コロヤマモトハオロカ」と嘆きながら相談にやってくることができるほどたやすい行程なのでしょうか。また、24綾「コヱクニハラミヤマノアヤ」にもココリ姫の義妹として「ウケステメ」は登場します。このようなことから、私は「ウケステメ」は中国の西王母ではなく九州の「ウケステ姫」であると思います。
この一族が獣肉食を常としたのが原因なのか、「シナギミ」は薬草を探しているというのです。ここも仙薬を求めた徐福の姿と重なります。
このように考えると、「アカカタノトヨクンヌ」は徐福ではないかと、より強く思えるのです。徐福は九州の佐賀から筑紫平野一帯に広大な農地を拓き、そこを領地として定住することを狙い、政治の中枢とも近づき、新しい文化を得たいヤマトの為政者と徐福の願いとが一致して、徐福は九州に「平原広沢」を得たのではないでしょうか。そのようにして、徐福は西の国、九州に定住することになったのでしょう。
徐福の痕跡
福岡県八女市に、石人石馬で有名な岩戸山古墳があり、石人石馬などの埋葬品は大陸系の文化を思わせます。被葬者は筑紫の君磐井と言われています。後に触れますが、このことも徐福と関わりを持つのです。また、童男山古墳という古墳の名前もいかにも徐福との関わりを感じさせます。この童男山古墳の近くの川崎小学校では、「童男山ふすべ」という徐福伝説にもとづく行事が行われているそうです。
また、佐賀県の吉野ヶ里遺跡は環濠集落や高床式倉庫なども中国の物と似ていると言われており、さらに北墳丘墓の造り方は、日本の古墳時代末期に採用されたといわれる中国伝来の技術がすでにこの時期に使われていたのです。北墳丘墓の解説に「大陸の知識を持った人が弥生時代中期に、既に関わっていた可能性が考えられます。現代のように機械がない時代には、技術とともに多くの人の手が不可欠であり、それだけ求心力のある人物のお墓であった事がうかがえます。」と書かれていますが、この時期にこれだけの物を持ち込んでいた人物が他にいれば、伝承の一つや二つ残っていてもおかしくないと思います。
「日本人の起源を探る」(隈元浩彦著、新潮OH!文庫)に、吉野ヶ里に代表される、顔が長く、鼻の付け根が扁平。彫りが浅く高身長という渡来系の弥生人の特徴と、山東省の臨淄(リンシ)の遺跡から見つかった人骨がよく似ているということが書いてありました。
これらの「物証」からも、私は徐福の他にそのような人物がいたとは思えないのです。