8 荒神谷遺跡の銅剣「358本」の謎をホツマツタヱで読み解く

未魁の新説異説

8 荒神谷遺跡の銅剣「358本」の謎をホツマツタヱで読み解く

 考古学ファンなら一度は訪れてみたい遺跡とも言われる荒神谷遺跡。何のために埋められたのか、未だに確たる説のない358本の銅剣に惹かれるからでしょう。何のために誰がこのように埋めたのか、それが解れば古代の出雲の姿を知る手がかりとなると誰もが考えています。ここではその銅剣「358本」の謎をホツマツタヱに書かれたことから読み解いてみたいと思います。少し回り道になりますが、その背景から話を進めます。

親の妃を后にしたフトヒヒ(開化天皇)

 話は32綾のワカヤマトネコヒコ、フトヒヒ(開化天皇)に始まります。  フトヒヒは父親ヤマトクニクルアマツキミ(孝元天皇)の後を継いで位に就くと、父親の妃であったイカシコメをイキシコメと名を変えて后にしてしまいます。これを重臣のオホミケヌシが、アマテルカミの教えのイセの道に反するものだと君を諫めますが、聞き入れられず、「ワガミヲヤカミ ハナレンヤ ケガレハマズ(このままでは神が見放すことでしょう。一緒に穢れることは断ります)」と言い捨てて帰り、隠棲してしまいます。
 「ワガミヲヤカミ」とは2代目大物主オオクニタマ(クシヒコ)のことです。大物主の家系はソサノヲ、初代オホナムチからオオタタネコにまで続く剛直な性格の家系です。「クシヒコウマレ スグナレバ サヅクミホコニ カンガミテ ミモロニイリテ トキマツモ ミチオトロハバ マタイデテ ヲコサンタメヤ(クシヒコは、生まれつき真っ直ぐな心を持っていたので、吾が矛を授けた思いを汲み取り、三諸の洞に入って世に出る時を待っている。それは道理が衰えたら再び世の中に出て、道理を立て直すためなのである)(28綾176~)」とアマテルカミが崩御の前に重臣たちに話しているが、オホミケヌシはこのことを言ったのです。

出自の因果に怯えるミマキイリヒコ(崇神天皇)

 フトヒヒは、その諫言を聞かずイキシコメを后にして、生まれたのがミマキイリヒコイソニヱ(後の崇神天皇)です。ミマキイリヒコはそれを知っていて、クシヒコに矛を授けたアマテルカミの言葉の「ミチオトロハバ マタイデテ ヲコサンタメヤ」というその「ミチ」を、親が外したことで子の自分に祟りが及ぶのではないかと、三種の神宝をそばにおけないほどに恐れたのではないでしょうか。それだから、ミマキの4年(33綾)、宮内で祖先から受け継がれてきた三種の神宝(国常立の御魂の神の御璽、アマテルカミの御魂の八咫の鏡、大国魂の御魂の八重垣の剣)を祭ってきましたが、「次第に三柱の神の威力が恐ろしくなり心が落ち着かなくなった。」とアマテルカミの御魂とオオクニタマの御魂を宮から出して別々に祭らせてしまいまったのです。極めて大事で本来そばに置くべき神を別々の所に遷すのですから、「ヤヤイヅオソレ」という言葉が単に「もったいなくも畏れ多い」というような「オソレ」ではなかったのです。

 もともと「鏡、剣、おして(御璽)」の三宝を内宮に祭ったのはニニキネです。その後、別々の場所に祭っておいたのですが、カンヤマトイハワレヒコ(神武天皇)が再び宮内に祭ることとし、それ以後皇は神を身際近くに置いてきたのです。また、カヌカワミミ(綏靖天皇)がクシヒコ、フキネ(オホナムチ)ワニヒコの三人を三輪の神とし、代々皇の守神として祭らせたということもあり、ミマキイリヒコにとって、自分の出自は神を恐れるに十分すぎるものだったのでしょう。その後、疫病が流行り民も逃散するという惨状が続きましたが、再びアマテルカミと大物主クシヒコの新しい宮を造り、八百万神を祭って窮地を脱することが出来ましたが、ミマキイリヒコにとって神は常に畏怖そのものだったようで何か気の毒なような気もします。

「ミマクホシ」が引き起こす事件

 「ミヨミマキ イリヒコアハヤ」の歌に始まる戦乱も収め、世に平安をもたらしたミマキイリヒコは自分の治める代を「ハツクニシラスミマキノヨ」と名付け、民を思い真摯に政を執りました。(「ハツクニシラスミマキノヨ」について、詳しくは34綾の解釈ノートをご覧ください。)このようなミマキイリヒコも、子子孫孫を慮ったのか心のゆるみが出たのか、オオヤマトフトニ(孝霊天皇)にタケヒテルが献上し出雲に納めた「玉川の神宝の文」を「ミマクホシ」と思いました。君が「ミマクホシ」ということは「見たいと思う」というのではなく、「差し出せよ」ということを意味するようで、次のイクメイリヒコ(垂仁天皇)の時にも「ヒボコガツトノ タカラモノ タジマニアルオ イマミント」と、「一度見たいものだ」と言いながら、宝を取り上げてしまったことが記されています。このミマキイリヒコの一言が、本題である出雲のフリネの事件、そして「銅剣358本」へと続いていくのです。

 不幸なことに、君の要望に負け、神宝の文を指し出した出雲のヰイリネは兄のフリネに殺され、その理不尽さを歌う「ヤクモタツ・・・」の歌が流行ると、ミマキイリヒコはフリネを殺させてしまいます。そして、出雲の臣が君を恐れてフリネ等を祭らなかったため「タマモシヅ イヅモマツラバ・・・」の歌が流行り、そのことが君の耳に入り「出雲を祭れ」と詔を下します。ここにはミマキイリヒコのイヅモの神を恐れる心情がよく表れていると思います。
 恐らく出雲の臣等は慌てて祭ったことでしょう。「イヅモタケルガ ハケルタチ」すなわちヰイリネがだまされて佩いた「タチ」は木刀だったので「アワレサビナシ」すなわち、「哀れなことに錆びてもいない、悪いことをした報いではないのに殺されてしまった」と歌われたことから、献納物として銅剣を奉げたのではないでしょうか。それが荒神谷の銅剣ではないかと思うのです。

荒神谷の銅剣は出雲の神を祭る献納物

 荒神谷の銅剣の埋納時期については1世紀中頃とか2世紀中頃という説があり明らかではありません。何のための埋納物かの見解もいろいろで、一時保管説、土中保存説、隠匿説、廃棄説、祭祀説、奉納説、国境説など様々あります。ただ、358本の銅剣は四列に整然と並べて埋められており、しかも、製造されて全く使われることがなかったということなのです。相見英咲氏は著書「倭国の謎」(講談社選書メチエ2003年)で「何かある特別な事情、製造時がまたほぼ埋納時とならねばならぬような切迫した異常な事件、そのようなものが想定されてよい。」とよい所を突いていますが、残念ながら「それはしかし、なおまだ議論を積み上げていかないと全貌が明らかになりそうにない。今はまだ、その段階に達していないのである。」と述べています。その後の進展について確かなことは分かりませんが、出土された銅剣の鉛同位体比などから出雲で鋳造されたのではないかという説が有力と言われています。そして、荒神谷の344本の銅剣の茎に×印が刻まれていて、それが何を意味するのかは判っていないそうです。そのような現状で、少なくもホツマツタヱには上記のように、その「製造時がまたほぼ埋納時とならねばならぬような切迫した異常な事件」が書かれているのです。

 私の「ホツマツタヱから推測した古代史年表」では、ミマキイリヒコ(崇神天皇)は155年から174年まで在位しています。すなわち2世紀中頃になり、荒神谷の銅剣の埋納時期がいろいろある説の内の2世紀中頃という説とも一致します。さらに相見氏は同書の中で、「出雲国風土記」に書かれている神社総数399社から後に出現したと同氏が算出した41社を除くと358社となると書いています。相見氏は「まさしく358の神社に配布するために製造されたのである」と結論付けていますが、私はそれとは違う考えです。
 2世紀中頃、出雲に358社の神社があったとして、358本の銅剣は神社に配られるために鍛造されたのではなく、その反対に358社の神社から奉納されたものだと私は考えます。突然の祭祀に間に合わせるため、祭りたくとも祭れなかった出雲の臣達に勅を受けた各神社は出雲の刀鍛冶にこぞって造らせたのではないでしょうか。そして、「×印」。これは出雲の君の霊に献上したもので、実用として使うことのないようにとの印だったとは考えられないでしょうか。
 荒神谷遺跡。生涯神を怖れて生きてきたミマキイリヒコ(崇神天皇)は、図らずも古代出雲の地にこのようなミステリアスな神の遺跡を残したのです。