4 徐福、卑弥呼、筑紫の君

未魁の新説異説

4 徐福、卑弥呼、筑紫の君
ー 卑弥呼は徐福とウケステメの子孫だった!ー

「九州倭国」があった!

 不老長寿の仙薬を探すことを口実に我が国にやってきた徐福は、ヤマトの為政のありかたや、他者を受け入れる寛容さに強く惹かれ、ヤマトへの亡命を決意する。徐福は進んだ文物をもたらすことと引き換えにヤマト政権と深い関わりを持つようになった。加えてヤマトの思想に共鳴する徐福の人柄はヤマト政権の強い信頼を勝ち取り、「平原広沢」すなわち筑紫平野辺りを一族の居留地として与えられた。このように「徐福は我が国の古代史に欠かせない人物」で述べました。そして、そこはしだいに自治区の性格を帯び、ヤマト政権と言えどもみだりに介入できなくなっていき、「国」と表現してもよいような地域になっていったと考えます。
 そこは三国志・魏志東夷伝、倭人の条(魏志倭人伝)にある「国邑」や旧唐書に「倭国」と書かれている所に重なるように思います。そこで、私はその地域をヤマト政権支配下での徐福集団の自治区として「九州倭国」と呼び、中国の史書の、独立国としての「倭国」とは区別することにします。
 そもそも「倭」とは、朝鮮半島から中国に至る東シナ海沿岸の地域を指していたようで、九州もその一部であったと思われます。「卑弥呼の正体」の著者山形明郷氏のように、中国の現地で文献を調べて(本の表題からすると卑弥呼の話のようですが)「倭国がどこにあったのか」を追求し、「倭国」は中国大陸や朝鮮半島にあったと結論付けている研究者もいますが、魏志倭人伝の研究者の多くが「倭国」は九州であるとしています。しかし、場所の特定は難しいようです。
 私の仮説の「九州倭国」と中国の史書の「倭国」とは地理的にはほぼ同じようです。例えば、随書の「倭国」に書かれている「都斯麻(ツシマ)国の、はるかに大海の中に在るを経。又東して一支国(イキ)に至り、又竹斯国(ツクシ)に至り、又東して秦王国に至る」という記述を考えてみます。中国から出航して、対馬(都斯麻国)壱岐(一支国)を経て九州にたどり着くとすると、九州の唐津湾辺りが考えられます。そこから上陸して、筑紫国(竹斯国)すなわち唐津から筑紫平野に踏み込み、なおも東して秦王国(九州倭国の中の一つの国か?)に至り、さらに進むと海岸に出るわけですが、地図もない未知の土地を東へ行くとしても、山を迂回し、川に沿って歩きなどしながら東を目指すのだから、結果的にかなり南下していたということも十分考えられます。そうすると、「又十余国を経て、海岸に達す」すなわち現在よりもっと陸地に入り込んでいた有明海の辺りに行きついたと考えられなくもありません。そこは「竹斯国自り以東、皆倭に附庸たり」ということで、唐津から筑紫平野一帯が徐福の「九州倭国」だったと考えられます。

九州倭国とヤマト政権との関わり

 それではヤマト政権の支配地と九州倭国はどこを境にしていたのでしょうか。私は背振山地を境にしていたと考えます。少し時代は下りますが、景行天皇が熊襲の地へ行幸した時の経路をたどると、回り道をするように九州倭国とする地域には足を踏み入れていないようです。景行天皇の頃になると、九州倭国はヤマト政権と言えどもみだりに介入できないくらい発展していったという左証のように思われます。
 また、「九州倭国」の長である徐福は、一方でヤマト政権の重臣で金山彦と呼ばれていました。それは前稿でも述べたように中山道を拓いたと書かれていることや、娘のウリフ姫がアマテルカミの妃となり、息子のアマクニタマは美濃の国を任され、孫娘のシタテルオグラ姫はワカ姫に仕え、孫のアメワカヒコはオオナムチへの使者となっていることなどから言えると思います。繰り返しになりますが、始皇帝の元から亡命し、子子孫孫我が国で暮らすことを考えた徐福は、ヤマト政権の中での地位を確立すると同時に、元々いた人々と融和し、ヤマトの言葉を日常語として、さらに名前も変えて「徐福」の影を消す覚悟でもいたのではないでしょうか。そして、連れてきた妻の他に、ヤマトの政権にかかわりの深い人物の血筋の女性を妻としました。それがウケステメ(姫)です。
 ウケステ姫については「徐福は我が国の古代史に欠かせない人物」で、家系を捨てて国際結婚をしたことが「ステ」という言葉から分かると書きました。では、ヤマトの政権にかかわりの深い人物の血筋とはどんな家系だったのでしょうか。わたしは、「ウケステ」という言葉から、「ウケ」を捨てた、すなわち「ウケモチの家系から出た」というように考えました。それを裏付けるように、佐賀市金立町にある金立神社には、保食神(ウケモチノカミ)、秦の徐福、罔象女命(ミヅハノメノミコト)が祭られています。金立神社は神社の名前から徐福の宮だった所のように思われますが、ウケモチと徐福が一緒に祭られているということは、両者に深い関係があるということを意味していると思います。
 「ウケ」の家系を捨ててしまった「ウケステメ」という名前は残念ながら残っていません。しかし、罔象女命(ミヅハノメノミコト)という名前は、水の神とされる古事記の「弥都波能売神(ミヅハノメノカミ)」や日本書紀の「罔象女神(ミツハノメノカミ)」と同じように見えますが、「神」ではなく「命」であるということは、「人」が祭られた証拠のように思われ、罔象女命(ミヅハノメノミコト)はウケステ姫の神名ではないかと考えるのです。
 ウケモチは人糞を肥料として農作物の生産の増大を図ったのですが、ホツマツタヱ15綾に書かれているように不運にも人糞を使うことをけがらわしいと思ったツキヨミに殺されてしまいましたが、後々まで「保食神(ウケモチノカミ)」として尊敬された人物です。その子孫だから、九州倭国の人となってもタマキネ(タカミムスビ、トヨケ)に「ヤマトの世を治める奥義」を学び、シラヤマ姫とも義理の姉妹となることができたのでしょう。これらのことからわたしは、ウケステ姫はウケモチの家系から出たと考えます。

徐福の拠点の推定

 上記の佐賀県金立町や童男山古墳などのある福岡県八女市など九州各地に徐福伝承が残っています。吉野ヶ里は甕棺や墳丘墓などヤマトの文化とは明らかに違い、渡来系の人が関わっていたとも言われています。ホツマツタヱ24綾によれば、ウケステ姫が産んだ子を「コロビツクニノ キミトナス」と書かれていて、紀元前160年頃は実質的には「国」といえる規模になっていたことが窺えます。
 では、そこはどの辺りだったのでしょう。時代は少し下りますが、ホツマツタヱ38綾に、景行天皇が九州行幸の途中でヤツメを越えた辺りで見た景色を「タタミウルワシ カミアリヤ」と言うと、その地のミヌサルヲウミが「ヤツメヒメカミミネニアリ」と説明したという話が出てきます。日本書紀にも同様の話があり、その「ヤツメヒメ」は八女市矢部村の神の窟(かみのいわや)という集落の八女津媛神社に「八女津媛」として祭られています。ミネニアリと言うほどではないけれど、矢部の集落から坂道を登った所にある神社には静謐な空気の流れる「神の窟」と呼ばれる巨大な岩窟があり、わたしには、まさにウケステ姫が葬られるにふさわしい所のように思われ、この地で多くの功績を遺したウケステ姫が八女津媛神とあがめられたのではないかと考えます。とすると筑紫平野の中でもこの一帯が徐福一族の居住地だったと考えられます。

邪馬台国と卑弥呼

 背振山地を境として筑紫平野辺りに定着した九州倭国は、時代とともに地域ごとに長が治め、魏志倭人伝で言われているようにいくつもの小国に区分され発展していきました。しかし、発展に伴う人口増により、耕作地を拡大しなければならなかった結果、土地争いや、あるいは権力争いなどが起き始めたのではないでしょうか。それは次第に相当深刻な対立となり、ついには「倭国大乱」の状態になったと想像します。
 隈元浩彦著「日本人の起源を探る」に、吉野ヶ里遺跡が「堅固な壕と物見櫓に守られた集落。まさしく城塞都市といった感じ」なのは、土地を守り水を確保するためで、「環濠集落はまさしく騒乱の時代を象徴している」と書かれています。そして、「吉野ヶ里遺跡で見つかる古人骨はいずれも渡来系の特徴を持っています。渡来の人たちが営々と築いたものでしょう。仮に戦乱があったとしても渡来系同士の争いだったと思いますよ」と佐賀県教委文化財課の七田忠昭氏の言葉を伝えています。そして、人口が「爆発的に増加した時期があった」「次から次に新しい集団が来たのではなく、この地で増えた」「渡来系の農耕社会が人口を増加させる非常に高い潜在能力を秘めていた」という、九州大大学院比較社会文化研究科助教授(形質人類学)(当時)中橋孝博氏の言葉を伝えています。これらのことは、ホツマツタヱから導き出した私の考えを裏付けているように思えます。
 倭国争乱はいわば仲間内の争いで、この状態を収束させるために徐福の血筋で信頼の厚かった女性が長として立てられた。それが「ヒミコ」だった。「ヒミコ」とは人名ではなく「姫皇子」という尊称で、「ヒメミコ」の「メミ」が「ミ」と聞きとられたか伝えられたかして、「卑弥呼」と漢字で表記された。このようなことから卑弥呼は徐福とウケステ姫の子孫だったとわたしは考えます。

倭の五王、そして継体天皇と筑紫の君磐井

 魏志倭人伝によれば、卑弥呼の没後男王が立ったがまた国が乱れ、イヨ(壹与)あるいはトヨ(臺与)という女性が立ったと書かれていますが、ホツマツタヱではそれは読み取ることができません。その後次第に大陸との交易も盛んになり、もともと渡来系の王は大陸向けに「讃、珍、済、興、武」などと名乗ったのではないかと考えます。
 現在の古代史の研究者の間では、この倭の五王の「讃」を履中天皇や仁徳天皇や応神天皇、「珍」を反正天皇や仁徳天皇、「済」を允恭天皇、「興」を安康天皇、「武」を雄略天皇と日本の天皇に比定しています。しかし例えば雄略天皇について言うと、稲荷山古墳の鉄剣の銘文が、「獲加多支鹵 (ワカタキロ) 大王」とあり、雄略天皇の和風諡号の「大泊瀬幼武命(オオハツセノワカタケノミコト)の「幼武」と「獲加多支鹵」が共通するとし、「多支鹵」が「武(タケル)」に当てた漢字なので雄略天皇は武であるという説が有力なようですが、「タケ」は「武」または「建」という意味合いがあり、「タケル」は「猛る」という意味合いで、似て非なるものなのです。熊襲タケルがコウスに名乗ってほしいといった名前は「ヤマトタケ」で、ヤマトタケルという言い方は間違いなのです。そのほかの王も無理なこじつけの感が否めません。だいたいが肝心の我が国の記録に、これほど大事な天皇の外交記録が一切存在しないのはおかしいし、自国の名を名乗らず相手国の呼び名に変えて外交するなどと言う屈辱的なことをするとは思えません。倭の五王が九州倭国の渡来系の人物だったとすれば、そのような名を名乗ることも、言葉の壁も何ら問題がなかったでしょう。
 とにかくそのようにしながら、渡来系の社会は着実に力を蓄えていったのだと思います。元々はヤマトの支配下にあった周辺の国々も九州倭国の進んだ文明に惹かれ、次第に友好の度合いを増していった、別の言い方をすれば九州倭国が周りの地域を飲み込んでいったとも言えるように思います。
 絶頂期の九州倭国は交易に便利な博多湾の一帯まで勢力を伸ばしたようです。その時の王が徐福とウケステ姫との子孫である「筑紫の君磐井」でした。日本書紀に「磐井、火(ヒノクニ)・豊(トヨノクニ)、二つの国に掩(オソ)ひ拠りて使修職(ツカヘマツ)らず。」と書かれています。九州倭国の勢力が肥後や豊前・豊後辺りまで及び、九州倭国の勢力の増大を懸念した継体天皇は、初めに徐福が与えられた範囲に戻るように命じますが、筑紫の君が応じなかったということで、継体天皇はついに武力をもって攻めることになった。それが磐井の乱だとわたしは想像するのです。
 ホツマツタヱ25綾にウツキネ(ホオデミ)が「シガノカミダハ マダミテズ ツクシノミヤニ ウツリマス ハオカンガエテ アブラカス イレテカスヤノ ハニミツル」(志賀の田は(肥えるのが)まだ不十分だったので、筑紫の宮に移られた。地味を考え、油粕を入れたので、糟屋の地はすべて豊かになった)とあり、26綾では「オオワニオ シガノウラヨリ ツナトキテ ハヤヂニキタノ ツニツキテ」(大鰐船を志賀の浦から船出させ、船を急がせ北の津に着き)とあります。このことから、ホオデミがヤマトの君になる前の紀元前140年頃は、現在の福岡市の志賀半島から粕屋町一帯の福岡湾沿岸地域はヤマトの支配地だったと考えられます。そして「遂に磐井を斬りて、果たして彊場(サカイ)を定む」すなわち、磐井の君は切られることになります。一説に豊の国の山の中に逃げたとも言われています。「彊場(サカイ)を定む」とあるので、改めて元の境界を確認したのでしょう。そして筑紫の君葛子(クズコ)は「父(カゾ)のつみに坐(ヨ)りて誅(ツミ)せられむことを恐りて、糟屋屯倉(カスヤノミヤケ)を献(タテマツ)りて死罪(シヌルツミ)贖(アガ)はむことを求(マウ)す」のでした。「磐井の乱」とも言われる戦いの果てに糟屋屯倉を返還しただけで収まったということは、九州倭国が徐福の時代に与えられた地域に撤退して、元の鞘に納まったということを意味しているのではないでしょうか。