12 武烈天皇の在位期間は38年間だった

未魁の新説異説

12 武烈天皇の在位期間は38年間だった

 私は「朝倉未魁の新説異説」で、真っ先に「ホツマツタヱから推測した天皇即位年による古代史年表」を発表しました。通説とは大きく違うため、にわかには信じていただけないのではないかとは思いますが、「新説異説」の中で、この年表に合わせて古代史の謎を解いてきました。いわばこの「古代史年表」は私の考察の基盤なのです。

 この年表の末尾の「506年 武烈天皇崩御。在位38年」について多分みなさんは、一般には在位は8年なのになぜ38年なのか疑問に思われていたことでしょう。たまたま継体天皇即位が507年と確定しているため、前から順に計算してきたら38年空いていたからなんていうのではありません。

カギは雄略天皇

 日本書紀では、雄略元年は大歲丁酉となっているので、西暦457年となります。その翌年二年秋七月に、天皇が百済の池津姫を娶ろうとしたのに、ほかの男と通じたというので、「火を以て焼き殺した」という恐ろしい記事の後に、「百濟新撰に云はく『己巳(ツチノトミ)年に、蓋鹵王(コウロオウ)立つ。天皇、阿禮奴跪(アレナコ)を遣して、來りて女郎(エハシト)を索(コ)はしむ。百濟、慕尼夫人(ムニハシカシ)の女(ムスメ)を莊飾(カザ)らしめて、適稽女郎(チャッケイエハシト)と曰ふ。天皇に貢進(タテマツ)るといふ。』」という一書が書かれています。ちなみに宇治谷氏訳は「百済新撰には、己巳の年、蓋鹵王が即位した。天皇は阿礼奴跪を遣わして、美女を乞わせた。百済は慕尼夫人の娘を飾らせて、適稽女郎と呼び、天皇にたてまつったという。」となっています。この一書について、岩波文庫版日本書紀の注釈によれば、蓋鹵王は毗有王(ヒユウオウ)の子で、「三国史記によれば即位は455年(在位455-475)。故にこの蓋鹵王は書紀に省略されている毗有王(在位427-455)の誤りかとの説がある。」とあります。さらに注釈に、「三国史記の毗有王二年戊辰(428)条に『倭国使至。従者五十人』とあり」と書かれていて、どうもこのときに「百済の美女」を要求したのではないかと思われます。ただし、この出来事は、私のこの時代の情勢で考えると、百済とのこのような関わりを持ったのはヤマト朝ではなく九州倭国だったのではないかと思います。

 面白いことに、私の計算による雄略天皇即位の年が427年で、百済の毗有王が王位に着いたのも427年です。そうすると、「百濟新撰に云はく」の中身は、百済の毗有王2年に倭国(私はこれを九州倭国と考えています)の使者が従者五十人を引き連れて「百済の美女」を要求したと考えると、つじつまが合うように思います。すなわち、この記事は雄略天皇がこの年に実在していたということを表わしているのではないでしょうか。

武烈天皇の在位期間は30年削られた

 上記のように雄略元年を427年とすると、日本書紀の雄略元年457年との差が30年となります。私がこれまでの「新説異説」で述べてきたように、日本書紀紀年は天皇の年齢や在位年数に多くの加算があります。そのため年代が確定している継体天皇から過去に向かって引き伸ばされて、神武即位が紀元前660年とされたと考えます。例えば仁徳天皇の在位期間は私の計算では37年ですが、日本書紀では87年間の在位となっています。67年の記事の後は20年間何も書かれず87年崩御となるなど不自然な空白があり、これらを私は加算年と考えるのです。
 このようにして30年後ろへ押せ押せとなっていき、継体天皇即位の507年が動かし難く、武烈天皇は38年の在位期間から30年削られ、わずか8年の在位期間にされてしまったのだと私は考えます。武烈天皇の年齢については、日本書紀の記述からの計算や扶桑略記や水鏡などでは18才です。帝王編年記や皇代記などは57才、天書には61才と書かれています。何が正しいのでしょうか。

 そもそも武烈天皇の記述には不自然さがあります。18才で崩御したとすると、10才で即位したことになります。
仁賢天皇7年に皇太子になったのだから、7才から9才の時の分裂した人格の記事「長じて裁きごとや処罰を好まれ、法令にも詳しかった。日の暮れるまで政務に従われ、知られないでいる無実の罪などは、必ず見抜いて明らかにされた。訴えを処断することがうまかった。またしきりにいろいろな悪事を行われた。一つもよいことを修められず、およそさまざまの極刑を親しくご覧にならないということはなかった。」(宇治谷孟訳)は、前半と後半では取ってつけたような、まさにジキルとハイドを思わせる人格が分裂した文であり、このあとの、わずか10才から18才までの若い天皇の猟奇な行動の数々を周りの重臣たちは、本当に何もできず手をこまねいていたとみなさんは思われますか。さらに、16歳の時、「自分には跡嗣がいない。何をもって名を後世に伝うようか。」(宇治谷孟訳)と言っていますが、16歳で跡嗣がいないことを憂いているというのもどうにも不自然です。
 仁賢11年8月条に次のようなことが書かれています。「十一年八月、億計天皇崩。大臣平群眞鳥臣、專擅國政、欲王日本、陽爲太子營宮、了卽自居、觸事驕慢、都無臣節」(11年8月、仁賢天皇が崩御された。大臣の平群真鳥臣(ヘグリノマトリノオミ)が、もっぱら国政をほしいままにして、日本の王となろうと欲した。表向きは太子のため宮を造ることにして、完成すると自分から住みこんだ。ことごとにおごり高ぶって、全く臣下としての節度をわきまえなかった。)
 この年は、武烈は皇太子4年で10才ぐらいと思われます。この記事からすると、武烈(この時は小泊瀬稚鷦鷯尊《オハツセノオオサザキノミコト》)はすぐには即位していません。仮に他の天皇のように16才から20才で即位したとすると、平群真鳥は6~10年ぐらい国政をほしいままにしていたと考えられます。こう考えると帝王編年記や皇代記などに書かれた「57才」に極めて近い年齢になります。

 私には、日本書紀が天皇の奇行とも言えるこれらを何のために書いたのかよく分かりませんが、継体天皇を正当化するため(まったくそんな必要はないのですが・・・)ではなく、在位年を30年も縮めたことのカムフラージュではないかと思ったりもします。
 武烈天皇の在位期間は38年、年齢は57才位が真の姿に近いのではないかと私は思っています。