13 知略の人、継体天皇

未魁の新説異説

13 知略の人、継体天皇

 「ホツマツタヱから推測した天皇即位年による古代史年表」を作るにあたって、継体天皇は実在と系譜が確実な最初の天皇として、即位の年が西暦で507年と客観的に確認できる極めて重要な天皇でした。ところがその実態となると、どうもわかりにくいようで、多くの方が疑問符で語られているように感じます。ですが、私は継体天皇の実態を探るうちに、継体天皇はすばらしい知略の人だとの思いを強くしました。
 これから書いていくことは、これまで私がホツマツタヱの解読や「新説異説」で述べてきた私の「古代史年表」やこの時代には「九州倭国」が一大勢力だったという九州の情勢が前提になっています。
 ここで舞台となる九州については、「新説異説」の「徐福、卑弥呼、筑紫の君」の、特に後半の「倭の五王、そして継体天皇と筑紫の君磐井」で書きましたので、是非もう一度目を通していただきたいと思います。

継体天皇は「どこの馬の骨」か?

 世継ぎのいない武烈天皇が506年に崩御すると、当然世継ぎをだれにするかが問題になりました。大伴金村等重臣がまず候補に挙げたのが丹波国桑田郡にいる仲哀天皇の五世孫に当たる倭彥王でした。大臣大連等がにぎにぎしく迎えに行きましたが、迎えの兵士らを見た倭彥王は恐れて山中に逃げてしまったというのです。倭彥王は、景行天皇、ヤマトタケ、仲哀天皇と続く勇猛な血を引く人物だったことを考えると、本当に逃げ隠れしたのか、天皇になることを固辞したのかは実際の所はよく分かりませんが、後で述べるような社会情勢に対応できないと判断したのではないかとも考えます。
 次に白羽の矢が当たったのが男大迹王(オオドオウ、後の継体天皇)でした。男大迹王は応神天皇の、これも五世孫で、越前国坂井の三国にいました。これを、天皇の血筋から遠く離れ、はるか日本海に面した福井県辺りにいる「どこの馬の骨ともわからない人物」といぶかる人も多いようです。関裕二氏も著書「継体天皇の謎」で「応神天皇五世の孫という系譜は、とてもではないが、皇位継承者として相応しくない。」と書いています。「五世孫」とはそんなに相応しくない存在なのでしょうか。


 ちなみに日本の民法は、「6親等内の血族、配偶者、3親等内の姻族を「親族」として定める(民法第725条)」としていますし、五世孫には「来孫、耳孫」などという呼び名もあります。考え方によれば「玄孫(ヤシャゴ)」を五世孫と呼ぶ場合もあるそうです。「曾孫」とか「来孫」とか系統に呼称が付いているということは法律がなくとも、家系として十分に認識されていたということを意味していると思います。他に後継者がいない場合、五世孫が継ぐことは何の不思議もないし、ましてや大伴金村や物部麁鹿火等の言うように「性なさけ深く親孝行で、皇位を継がれるのにふさわしい方」「ご子孫を調べ選んでみると、賢者はたしかに男大迹王だけらしい」(宇治谷孟訳)というならなおのことです。男大迹王は応神天皇という、かつて九州で各地を巡り治めた人物の子孫ということで、後に述べる九州の社会情勢に対応するにふさわしい人物と見られたのでないかと思われます。

男大迹王から継体天皇へ

 しかしながら、男大迹王はすぐには首を縦に振りませんでした。日本書紀の「然天皇、意裏尚疑、久而不就」という文から「心の中で疑っていて、なかなか承諾しなかった」と解釈できますが、何を疑っていたのでしょう。天皇に迎えるということの真偽を疑っていたのでしょうか。これに続く「適(タマタマ)河內馬飼首荒籠(カワチノウマカイノオビトアラコ)を知れり、密(シノビ)に使を奉遣(タテマダ)して、具(ツマビラカ)に大臣大連等の迎へ奉る所以(ユエ)の本意(モトツココロバエ)述(ノ)べまうさしむ」(岩波、読み下し文)の「密(シノビ)に使を奉遣(タテマダ)して」に関して、宇治谷孟氏の訳は、「彼(馬飼首荒籠)は使いを差し上げて、詳しく大臣・大連らがお迎えしようとしている本意をお伝えした。」となっています。その「本意」とは「何のために自分が必要とされているのか」ということで、男大迹王はそれをきちんと確かめたかったのではないでしょうか。もしかしたら、本当は馬飼首荒籠が男大迹王に使いを出したのではなく、男大迹王自ら馬飼首荒籠かその使いに奈良の都まで確かめに行かせたのではないかとさえ思います。むしろこのような周到な性格こそ、後の継体天皇の行動の元になったのではないかとさえ思えます。
 男大迹王が「賢者はたしかに男大迹王だけらしい」と言われるほどの人物だとすれば、武烈天皇の情報だけでなく、九州倭国の情報もある程度承知していたのではないかと思います。それで自分が単に後継に収まることだけを求められているのではないことを確認したのだと思います。それだからこそ、もしこれを断ったら「殆取蚩於天下(天下の笑い者になるところだった)」と言ったのではないでしょうか。男大迹王はなおも辞退しますが、大伴金村等の懇願を確認して腹をくくったのだと思います。ここでついに男大迹王は天皇に即位しました。507年のことでした。これ以降、男大迹王は継体天皇と呼びます。

九州の社会情勢

 冒頭触れた「徐福、卑弥呼、筑紫の君」で、私は「讃、珍、済、興、武」はヤマトの君ではなく、九州倭国の王だと提起しました。例えば507年というと、九州倭国の王は「倭王武」だと私は考えています。一般的には倭王武は雄略天皇だと言われています。ところが、雄略天皇の崩御は書紀紀年で西暦479年なのに、南斉書倭国伝によれば、倭王武はその479年に南斉から「鎮東将軍」の官位を受けています。更に梁書武帝紀によると、23年後の502年には梁武帝が倭王武を征東将軍に進号したとあります。書紀紀年でも私の年表でも雄略天皇の死後にこのようなことが行われたことになり、倭王武は雄略天皇ではない、すなわち九州倭国の王だと言えると思います。
 神功46年条に、百濟人久氐(クテイ)らが卓淳国を訪ね、聞東方有日本貴國(東の方に日本という尊い国があると聞いた)として、通交の仲介を求めたという記事があります。徐福に始まる九州倭国は百済などの半島や大陸の国々と何の支障もなく関わりを持ってきただろうと考えると、ここで「日本」と呼ばれたのは九州倭国だったのではないかと思います。こうして九州倭国と百済の通行が親密になっていき、九州倭国は「倭の五王」の時代になりました。

 倭王讃の頃になると、九州倭国の勢力は強くなったようで、すでに武烈天皇の頃はヤマト朝も警戒しなければならないほどになっていたのかも知れません。もともと徐福が与えられた場所は背振山脈を境として佐賀方面と筑後川一帯と有明海に面した筑紫平野辺りでしたが、文化水準が高い九州倭国とは、周辺の地域は自ずと友好関係ができていったのでしょう。継体天皇が即位した頃は宮崎や鹿児島あたりは別として、周辺の地域は九州倭国とのつながりも強くなって行ったと考えます。
 その頃の九州倭国の王は「筑紫の君、磐井」でした。継体21年条に「筑紫國造磐井、陰(ヒソカ)に叛逆(ソム)くことを謨(ハカ)りて・・・」「磐井、火(ヒノクニ) 豐(トヨノクニ)、二つの國に掩(オソ)ひ據(ヨ)りて、使修(ツカヘ)職(マツ)らず」とあるように、磐井が勢力を拡大しようとしていたのは見え見えです。九州の半分以上が九州倭国の仲間として広がっていったことに関して、ヤマト朝は相当な危機感を持っていたはずですが、武烈天皇はあのひどい書かれ方からすると、何の手も打たなかったように思われます。だからこそ武烈天皇の重臣たちは倭彥王や男大迹王を必死の思いで選んだのではないでしょうか。これがこの頃の九州の社会情勢だったと私は考えています。

継体天皇の深謀遠慮

 継体天皇は507年に即位しましたが、すぐには大和(奈良)の都に入っていません。大和の磐余玉穗の宮に入るまでに20年も費やしています。この間、元年に樟葉宮(クスハノミヤ、大阪府枚方市)、5年に山背(ヤマシロ、)の筒城宮(ツツキ、京都府京田辺市綴喜郡)、12年に弟国宮(オトクニ、京都府長岡京市乙訓郡)と居所を変え、20年にやっと磐余玉穗(イワレタマホ、奈良県桜井市)に落ち着きます。この事を多くの研究者はいぶかり、「なぜすぐに大和に入らなかったか謎だ」とか、「反対勢力によって大和に入ることをはばまれていた」とか、「王権を巡っての争いがあったのではないか」とか、「継体天皇は大和の有力豪族の賛意を得られていなかった」とか、いろいろ言われていますが、どうもイマイチはっきりしないようです。
 いくら武烈天皇がダメ天皇であったとしても、その重臣が選んだ次期天皇が20年も都入りできないほど反対し続けられた豪族がいたと考えられますか。私は継体天皇が敢えてこのような行動をとったのだと考えます。継体天皇が渡り歩いた宮について見てみましょう。

  • (1) 樟葉宮 始めの4年間いた樟葉宮のある枚方市辺りは、宇治川と桂川、木津川という三つの川が合流して淀川となり、下っては大阪湾に至るという、交通・運搬には格好の場所です。人も物資も情報も掌中に収めるには、なんと都合の良い場所ではありませんか。前述の継体天皇が「自分が単に後継に収まることだけを求められているのではないことを確認した」というのは、自分の使命は九州倭国のもくろみを鎮めることと自覚したということです。そのために、兵士や武器などの調達や九州倭国の情報のルートを確保することを考えたのだと私は考えます。高城修三氏も著書「神々と天皇の宮都をたどる」で、樟葉宮の項で、「樟葉の地を抑えれば、近畿の主要部を制したことになる。」「琵琶湖を中心とした交通路を押さえて勢力を蓄えた継体天皇は、さらに樟葉宮の地を掌握して畿内の交通の要所を我がものとしたのである。見事な戦略と言わねばならない。」と書かれていますが、まったく同感です。
  • (2) 筒城宮 京都府京田辺市の筒城宮には7年いました。ここは京都府、大阪府、奈良県の三角地帯の中央部に位置し、琵琶湖方面、京都市方面、大阪方面、奈良方面に延びる道はやはり交通・運搬には格好の場所だったようです。
  • (3) 弟国宮 京都府長岡京市乙訓郡の弟国宮には8年いました。ここは現代では山陰本線や国道9号線、27号線などで宮津や舞鶴などの、若狭湾岸へ、また琵琶湖を経て越前方面へつながります。この路線は、かの時代にも日本海側へ抜ける主要なルートだったと思われます。出身地である越前や若狭湾とつながるということは、より確かに人・物・情報が手に入るということだと思います。
  •  このように、継体天皇は密かに3か所の宮を九州倭国との有事に備える重要な拠点としたのであって、「反対勢力によって大和に入ることをはばまれていた」などということではないと思います。20年間というといささか長いようにも感じると思いますが、それぞれの場所で人脈を作り態勢を整えるにはそれなりの年月がかかっても不思議ではないと思います。そして、現代の研究者達も「モタモタしている」と感じているように、筑紫の君磐井たちも、ヤマト側はだいぶ落ち着いていないと思いこそすれ、継体天皇が着々と準備を進めていたとは気付かなかったのではないでしょうか。継体天皇のこの20年間のほとんどは九州倭国対策だったと私は思っています。

     なお、継体天皇の出身地、福井県のホームページには、地理的なことだけでなく、人脈も周到に広げられたことをうかがわせる次のような記事が載っています。

     継体大王のお妃の出身地をみると、尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘・目子媛が愛知県、三尾角折君(みおのつのおりのきみ)の娘・稚子媛(わかこひめ)と三尾君堅楲(みおのきみかたひ)の娘・倭媛(やまとひめ)が福井県、坂田大跨王(さかたのおおまたのおおきみ)の娘・広媛(ひろひめ)と息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の娘・麻績娘子(おみのいらつめ)が滋賀県、茨田連小望(まんだのむらじおもち)の娘・関媛(せきひめ)が大阪府、和珥臣河内(わにのおみかわち)の娘・荑媛(はえひめ)が京都府、根王(ねのおおきみ)の娘・広媛が岐阜県と思われる。つまり、大和周辺から滋賀県、岐阜県、愛知県、さらに福井県と、大和から東国にかけての豪族の娘を妃にしている。このことにより、継体大王はこの連合勢力に支えられながら擁立されたと考えられる。
     男大迹王が即位できた理由の一つに、国内に様々なネットワークを有していたことが挙げられる。伊勢湾を舞台に活発に行われていた各地との交易や、美濃国の良質な鉄鉱石産地を押さえていた大豪族・尾張連草香(おわりのむらじくさか)からは目子(めのこ)媛をめとっている。また、軍事用の馬を飼った集団で牧(牧場)を抱えた豪族であり、当時、軍事関係の最先端にいたといわれる河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)にもつながりがあり、有力な情報を得ていたという。ほかにも、お妃関係や父方の豪族とのつながりも多くあったといわれる。

     以上のことだけでも、継体天皇がいかに知略の人だったかがお分かり頂けると思いますが、これだけではありません。

    磐井の乱、継体天皇の戦術

     磐余玉穗宮に落ち着いた継体天皇が、まず21年6月に近江の毛野臣(ケナノオミ)を、兵6万を付けて任那に向かわせましたが、それを知った磐井が新羅からそそのかされて毛野臣の軍を妨害するというできごとがありました。そこで継体天皇が「筑紫磐井、反(ソム)き掩(オソ)ひて、西の戎(ヒナ)之(ノ)地(クニ)を有(タモ)つ。今誰か將(イクサノキミ)可(タルベキ)者。」(筑紫の磐井が反乱して、西の国を我がものとしている。いま誰か将軍の適任者はあるか)と言うと、衆議一決、「正(タヒラ)に直(タダ)しく仁(メグ)み勇みて兵事(ツハモノゴト)に通(ココロシラ)べるは於、今麁鹿火が右に出づるひと無し於。」と、麁鹿火(アラカイ)が推されました。
     21年8月、麁鹿火に出陣を命じた時、継体天皇は「社稷(クニイヘ)の存亡(ホロビホロビザラムコト)於是(ココ)に乎在り」と言います。「社稷(シャショク)」とは国家、朝廷のことで、その存亡がこの戦いにかかっていると、継体天皇は相当な危機感を持っていたことがうかがわれます。それほどまでに筑紫の君の勢いが強かったということが言えると思います。
     麁鹿火のような優秀な将がいるのに、6万もの兵を付けて海を渡る軍に毛野臣を将として行かせたということは不可解なことのようにも思われますが、ここに継体天皇の策略があったのではないかと私は考えます。毛野臣の軍は磐井の妨害にあって、行く手を阻まれてしまいますが、真の狙いは磐井の反乱を誘って筑紫磐井を討つことで、毛野臣に兵6万を付けて任那に向かわせたのは巧みなカムフラージュだったと私は見ます。

     戦闘状態に入って、磐井が切られるまでの状況が分かりやすく書いてある、兼川晋という方の「大王・天皇並立論」(九州古代史の会編「磐井の乱とはなにか」、同時代社刊)という文がありましたので、以下に引用します。

     磐井を討つための官軍は、何月何日どこを出発したのか、どこを経由して御井郡に到着したのか、途中の進撃経路などはどこにも示されていないわけです。そして戦端が開かれるや否や官軍が圧勝してしまいます。磐井は当然斬られてしまう。大和と筑後は700キロメートルあるわけですが、その700キロメートルの間を官軍は瀬戸内海を船に乗って渡ってきたのか、あるいは山陽道を歩いてやって来たのか、何にもそういうことは書かれていません。しかも任那への派遣軍は渡海を妨害されたというのに、征討軍は何の抵抗も受けずに700キロを進軍し、そしてバタバタと官軍が勝ってしまうのです。当然磐井も斬られて果てる。その挙げ句どうしたかというと、磐井の子の葛子が糟屋の屯倉を指し出すことで許される、これが有名な磐井の乱の決着だというから、開いた口がふさがらないというのはこのことでしょう。

     ここで、兼川氏が疑問視しているように、毛野臣の軍は簡単に阻まれているのに、麁鹿火の軍はいつどこを出発したのか、進撃経路はどこなのか分からず、何の抵抗も受けていません。磐井側も継体側の動きを探っていたはずなのにまんまと裏をかかれたのです。先に「巧みなカムフラージュ」と書いたように、実は毛野臣の軍の一部は筑紫を目指す軍だったと考えます。磐井の注意を毛野臣の軍に向けておいて、磐井の軍がぐずぐずと任那への道を塞いでいる間に、麁鹿火は密かに筑紫への軍を迂回させて九州へ向かったと考えることもできると思います。すなわち毛野臣の軍はおとりだったという訳です。毛野臣は磐井にバカにされ、後の行状も必ずしもよく書かれていない人物だったことからも、毛野臣がカムフラージュのために使われたとしてもおかしくないと思います。

    「糟屋屯倉」の意味すること

     筑紫御井郡での戦いで、筑紫の君磐井は破れます。そこで「筑紫君葛子(クズコ)、父のつみに坐(ヨ)りて誅(ツミ)せられむことを恐りて、糟屋屯倉(カスヤノミヤケ)を獻(タテマツ)りて、死罪(シヌルツミ)贖(アガ)はむことを求(マウ)す」すなわち、磐井の子の葛子が糟屋の屯倉を指し出すので死罪を許してほしいと言ったのですが、私の解釈では「開いた口がふさがらない」というような不可解な決着ではありません。
     先にも書いたように、「筑紫の君、磐井」はその頃の九州倭国の王です。九州倭国はホツマツタヱの時代の徐福以来、背振山脈と筑後川とでヤマト朝の支配地との境をなしていました。ということは糟屋屯倉の辺りはもともとヤマト朝の支配下にあった所です。磐井も下心はあったにせよ、これらの土地を力づくで奪ったのではなく、友好関係を結びながら、徐々にその影響力を強めて行ったのだと考えます。ヤマト朝にとっては、力づくより「ジワジワ」の方が不気味だったはずです。だからこそ毛野臣の軍を阻んだという口実も必要だったのかもしれません。

     ホツマツタヱでも何度か語られていますが、ヤマト朝は戦った敵でも「まつろえば許す、まつろわざれば討つ」という習わしがありました。ここでも、戦った磐井は討っても、降伏した葛子は助けるという、ホツマツタヱの時代の紀元前200年ごろから連綿と続いてきた習わしが生きていたのです。糟屋屯倉を差し出すということは、膨張したすべての地域から撤退し、徐福の時代に与えた地域に九州倭国が戻るということで、この騒動の根本解決を意味しているのです。この後九州倭国は200年ほどは存続しますが、白村江の戦いに敗れたころから影が薄くなっていきました。  継体記の末尾の一書に「又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨」(また聞くところによると、日本の天皇および皇太子・皇子みんな死んでしまった)とありますが、これは九州倭国のことです。しかもみんな死んでしまったわけでもないので、情報としても不正確なものです。

     以上のように継体天皇は「どこの馬の骨」どころか、すぐれて「知略の人」であったと言えましょう。最後に知略の人継体天皇の言葉を紹介してこの項を閉じます。

     朕承帝業、於今廿四年、天下淸泰、內外無虞、土地膏腴、穀稼有實。竊恐、元々由斯生俗・藉此成驕。故、令人舉廉節、宣揚大道、流通鴻化。能官之事、自古爲難。爰曁朕身、豈不愼歟。
     「私が帝位を継いで24年、天下泰平、内外に憂いもなく、土地肥え五穀豊穣である。ひそかに恐れるのは人民がこれに慣れてしまい、驕りの気持ちを起こすことである。廉節の士をえらび、徳化を流布し、勝れた官人を登用することは、古来難しいとされている。わが身に思いを致し慎まねばならぬ」といわれた。(宇治谷孟訳)