11 神功・応神紀の紀年と実年代とが120年(干支2運)ずれている謎を解く

未魁の新説異説

11 神功・応神紀の紀年と実年代とが120年(干支2運)ずれている謎を解く

120年の「ずれ」とはどういうことか

 私は、神功皇后は241年に摂政となり、289年に没したと考えています。「新説異説」の「神功皇后はなぜ斯くも長く摂政を続けたのか?」で、応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の孫であることを述べました。ここには120年のずれなどということは何も存在していません。それでは、日本書紀の120年のずれとはどういうことでしょうか。

 日本書紀では、神功摂政元年は201年(神武即位を紀元前660年とする紀年)で、神功皇后没が269年とされています。事績については201年から238年までの前半部分には記事が5項目と少なく、次のようなことが書かれています。

  •  201 神功、摂政になる。
  •  202 仲哀天皇を河内の国の長野陵に葬る。
  •  203 誉田別皇子を皇太子とする。
  •  205 葛城襲津彦、新羅出兵
  •  213 誉田別皇子、敦賀の笥飯大神(けひのおおかみ)に参る。

 このうち、205年の「葛城襲津彦、新羅出兵」以外は神功の身内の出来事です。この「葛城襲津彦、新羅出兵」というのは、仲哀9年に人質として来た微叱許智伐旱(ミシコチバッカン)が神功皇后をだまして新羅へ逃げ帰ったため、葛城襲津彦が新羅を攻めた話です。岩波文庫「日本書紀」の注に、「三国史記や三国遺事にある4世紀末から5世紀初めの出来事と『同工異曲』なので書紀が加えたものとみられる」とあり、後年の出来事が書かれた可能性もあります。とすると、前半38年間は身内のこと以外の公的なことが何も書かれていなかったと言えそうです。
 一転して、後半の239年からの28年間は魏志からの引用や百済との通交のことなどが14か所も書かれています。このうち、239年の「魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等詣郡」をはじめ、240年、243年、266年の記事は中国史書の引用なので、一応西暦通りと考えられます。
 ところが、246の記事に「遣斯摩宿禰于卓淳國」と、斯摩宿禰を卓淳國に遣使したことが書かれていますが、その記事に、「時百済肖古王、深之歓喜、而厚遇焉」とも書かれています。肖古王は346年~375年の百済の王ですから、この記事には100年から139年の「ずれ」があります。この他の247年、249年、252年、255年、256年、262年、264年、265年の記事は、例えば255年は「百済肖古王薨」とありますが、三国史記には「肖古王30年に王が薨じた」とあり、それは375年のことです。また265年は、「百済枕流王薨」とありますが、三国史記に「枕流王2年に王が薨じた」とあり、それは385年のことです。このように、これらの記事の中に「120年後の百済の歴史」が書き込まれているため、どうも神功皇后の実年代と120年ずれているということになってしまうのです。

謎を解くカギは継体6年条、物部麁鹿火(アラカイ)の妻の言葉

 日本書紀の紀年と実年代とが120年(干支2運)ずれているということについては、多くの研究者や愛好家がふれていますが、なぜ、何のためにこのように書いたのかということになると諸説あり、120年(干支2運)ずれているという事実を述べるにとどまっている記事も多く見受けられます。「神功皇后はいなかった」という架空説ではすべてが作り事ということになり論外ですが、それでも120年ずれている記事を書いたわけをあれこれ考察している研究者がおり、「神功皇后を卑弥呼に比定したため干支を2運繰り上げた」という説は多く論じられています。新説異説「卑弥呼は九州倭国の田油津姫だった」で述べたように、神功皇后と卑弥呼(私の説では田油津姫)は確かに同時代にいましたが、同一人物ではありません。私は神功皇后を実在の人物と考えていますので、その立場で話を進めます。


 日本書紀の継体6年条に次のようなことが書かれています。百済が、任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県を欲しいと言ってきた時、哆唎の國守、穗積臣押山が与えた方がよいと言い、大伴大連金村も同調した。そこで物部大連麁鹿火が勅使として難波館に出向き、百済の使いに勅を伝えようとしたとき、麁鹿火の妻が諌めた。この妻の諌めの言葉が謎を解くカギになるのです。ここからは宇治谷孟氏の訳を引用します。
 その妻が固く諌めて、「住吉大神は、海の彼方の金銀の国である、高麗・百濟・新羅・任那などを、まだ胎中におられる応神天皇にお授けになりました。そこで神功皇后は、大臣の武內宿禰と共に、国毎に官家(ミヤケ)を設け、海外でのわが国の守りとされ、長く続いてきた由来があります。もしこれを割いて他国に与えたら、もとの領域と違ってきます。そうしたら後世長く非難を受けることになるでしょう」といった。大連は言葉を返し、「言うところは理に適っているが、それでは勅宣(ミコトノリ)に背くことになるだろう」といった。その妻は強く諌めて、「病気と申し上げて勅宣をお受けしなかったら」といった。大連は諌めに従った。
 ここで、麁鹿火の妻が言う「住吉大神は高麗・百濟・新羅・任那などを、まだ胎中におられる応神天皇にお授けになりました」とは、仲哀8年9月の条で、仲哀天皇の熊襲を討とうという考えに神功皇后は反対して、神の信託として「新羅を服従させれば熊襲も従うだろう。その御子が国を得られるであろう」と言ったことを指していると思います。

なぜこのように書かれたのか

 ところが実際には高麗・百濟・新羅・任那などがヤマト朝の支配下には落ちていません。ですが、このように書いてあるということは、8世紀に書かれた日本書紀の編纂者は神功皇后が高麗・百濟・新羅・任那などと関わりを持っていた、すなわち初めて外交をした人物だと考えていたと思われます。しかし、徐福に始まる九州倭国が、地理的にも文化的にも言語的にもこれらの国々と交易をするのにヤマト朝とは比べ物にならないくらい有利だったはずで、わたしはこれらの外交は九州倭国が行っていただろうと考えます。


 そもそも「百済」という国名は、346年(丙午)の13代近肖古王のときに始まり、その時から国史を書き始めています。ところが日本書紀の編纂者は神功皇后が百濟と関わりを持っていると考えていたので、近肖古王の「丙午」と同じ神功皇后の「丙午」の年を同一の年と見たのではないかと考えます。すなわち、近肖古王の346年(丙午)と神功摂政26年(紀年226年、丙午)を同じ年としたため、実年代で346-226=120という「ずれ」、しかも120年後の出来事を書くという、現代では不可解な謎を生じてしまったのです。
 私はこの事実を意図的、作為的に行ったものとは思いません。当時は天皇毎の年数や干支で歴史を編纂している状況であり、8世紀ともなれば中央集権的な政治体制の中で、九州倭国の存在が忘れられたか抹消されたかして、九州倭国の事跡だった事柄はヤマト朝の事跡として認識されたのであって、潤色や改竄などの作為をもって書かれたのではないと考えます。