5 神功皇后はなぜ斯くも長く摂政を続けたのか?

未魁の新説異説

5 神功皇后はなぜ斯くも長く摂政を続けたのか?
~応神天皇と、誉田御廟山古墳と二ツ塚古墳、ホムタノヒノミコオオサザキの謎~

応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の孫だった

 まず、当サイトの「ホツマツタヱから推測した天皇即位年による古代史年表」をご覧ください。ホツマツタヱの記事はヤマトオシロワケ(景行天皇)で終わっていますが、景行天皇の皇子ワカタラシヒコが成務天皇となり、次に景行天皇の皇子ヤマトタケの皇子タラシナカツヒコが仲哀天皇となりました。仲哀天皇は熊襲征討の時不慮の死を遂げ、后である神功皇后が摂政に就きます。そして、神功皇后は、私の計算による年表では、241年に摂政となり289年に没するまで実に49年間摂政をしていました。日本書紀では69年間摂政だったことになります。摂政は天皇が幼少だったり事故があったりした時のリリーフのはずで、69年間は言うまでもなく49年間はいかにも長く、何かワケアリの臭いがしませんか。
 それでは神功皇后が斯くも長く摂政を続けなければならなかった理由を推理していきましょう。
 すでにお気づきのことと思いますが、私の「古代史年表」では、259年に「誉田別皇子没。19歳。20歳の加算で39歳とされる。誉田別皇子の子1~3歳位か。」、260年には、「神功摂政20年。加算により40年とされる。」、さらに270年頃に「誉田別皇子の子(後の応神天皇)が親の名「誉田別」を名乗る。」、そして289年に「気長足姫(神功皇后)没。摂政在位49年。」となっています。
 日本書紀に書かれている神功皇后の事跡をホツマツタヱ風に読み解いてみると、ほとんどの記事は10年以下の間隔で書かれているのに、13年の次は39年と26年も飛んでいます。この間は実際は6年で、20年は加算年だったのではないかと考えます。これは仲哀天皇が没した後に生まれた皇子ホムタワケが19歳で亡くなり、20年(歳)加算して39歳で亡くなったとしたことによると考えました。オキナガタラシ姫(神功皇后)も連動して20年の加算があったものと考えます。(加算年の考え方については「ホツマツタヱから天皇の在位年を探る」をご覧ください。)そしてホムタワケが亡くなったとき、「古代史年表」に「誉田別皇子の子1~3歳位か」と書いたように、ホムタワケには幼い皇子がいたのです。それが、なぜ神功皇后が斯くも長く摂政を続けたかの謎を解くカギとなるのです。
 上記のように49年も皇后の立場で摂政を続けたというのは、それだけの期間皇位を継げる者がいなかったということを意味すると思います。仮に皇子ホムタワケが生存していたとすると、なぜ我が子が50歳になろうとする時まで母親が摂政を続けなくてはならなかったのか理由が分かりません。そこで、私はホムタワケが天皇に即位すべき歳になる前に亡くなってしまい、オキナガタラシ姫(神功皇后)は孫が世継ぎとなれる年まで摂政を続けざるを得なかったと考えました。そして孫は後の応神天皇となります。そうすると、ホムタワケが死んだにもかかわらず、次に即位した応神天皇が「ホムタノスメラミコト」いう和風諡号なのはなぜかと疑問に思われるかもしれません。その間の事情を日本書紀とホツマツタヱにはどのように書いてあるか見てみたいと思います。

皇太子が神と名前を取り換えた?

 日本書紀には次のように書かれています。

一(アル)に云はく、初め天皇(スメラミコト)、太子(ヒツギノミコ)と為りて、越国(コシノクニ)に行(イデマ)して、角鹿(ツヌガ)の笥飯大神(ケヒノオオカミ)を拝祭(ヲガ)みてたてまつりたまふ。時に大神と太子と、名(ミナ)を相易(アヒカ)へたまふ。故(カレ)、大神を号(ナヅ)けて、去来紗別神(イザサワケノカミ)と日(マウ)す。太子をば誉田別尊(ホムタワケノミコト)と名(ナヅ)くといふ。然(シカ)らば大神の本(モト)の名を誉田別神、太子の元(ハジメ)の名をば去来紗別尊と謂(マウ)すべし。然れども見ゆる所無くして、未だ詳(ツマビラカ)ならず。
ー 坂本太郎他校注『日本書紀(二)』(巻第十、誉田天皇 応神天皇) 岩波文庫

すなわち、応神天皇は皇太子になって、敦賀の笥飯大神を参拝したとき大神と名前を入れ替えた。それで大神が去来紗別神(イザサワケノカミ)となり、皇太子は誉田別尊(ホムタワケノミコト)となったというのです。そうすると大神のもとの名は誉田別神で、皇太子のもとの名は去来紗別尊ということになるが、記録がないのでよく分からない、と疑問のまま終わっています。だいたい「神と皇太子と名前を取り換える」ってどういうことって思いませんか。ここにカラクリがあるのです。
 日本書紀の敦賀の笥飯大神というのは主祭神が伊奢沙別命(いざさわけのみこと)である福井県の氣比神宮のことと考えて間違いないでしょう。氣比神宮の「由緒沿革」によると「伊奢沙別命は、笥飯大神(けひのおおかみ)、御食津大神とも称し、上古より北陸道総鎮守と仰がれ、文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉姫命を平殿宮、武内宿禰命を西殿宮に奉斎して『四社之宮』と称した。(一部抜粋)」とあり、もともとこの宮は上古より伊奢沙別命を祭っていたと考えられます。


 ホツマツタヱには、25綾から27綾にかけて「イササワケ」が出てきます。
 25綾ではニニキネが『ウツキネスセリ キタノツニ ユキテオサメヨ イササワケ アレバムツメヨ(ウツキネとスセリは政を補佐せよ。ウツキネとスセリは北の津に行って二人で治めなさい。二人には多少のわだかまりがあろうが、そこで仲良くせよ)』と皇子のウツキネとスセリを北の津にいかせます。(後にいわゆる「海幸彦、山幸彦」の話に発展します。)
 26綾では『ハヤヂニキタノ ツニツキテ イササワケヨリ ミツホマデ ミカエリアレバ アマキミモ トミモヨロコブ(船を急がせ北の津に着き、(ウツキネが)イササワケの宮からミヅホの宮まで帰られたので、ニニキネも臣達も喜んだ)』とあります。
 27綾ではウツキネは即位してホオデミ君となり、崩御した時は『ミコトニマカセ オモムロハ イササワケミヤ ケヰノカミ ユエハヲキナニ ケヰオヱテ メクリヒラケル チオエタリ(遺言に従って遺骸をイササワケ宮に納め、食飯の神として祭った。そのわけは、シホツツの翁の計らいで食飯(米)を得ることができるように筑紫を巡り、田を拓き豊かな農地を得たことによる。)』と、ウツキネ(ホオデミ、山幸彦)は北の津のイササワケ宮で「ケヰの神」としてまつられました。この「ケヰの神」となったいきさつは、日本書紀の解釈と私のホツマツタヱの解釈では大きく違っています。

 これらの記述と日本書紀と合わせると、「北の津」は敦賀、「イササワケ宮」は氣比神宮に間違いなく、ホオデミの崩御は私の年表で紀元前118年、この出来事は紀元後270年頃で、イササワケ宮(氣比神宮)は400年ほど前からあったのです。
ということは、「大神のもとの名は誉田別神」であるわけがないのです。すなわち、「誉田別尊」となったという皇太子は、前述の、亡くなったホムタワケの幼い皇子の成長した姿だったのです。わたしはこの様子を次のように想像します。神功皇后の孫は武内宿禰に連れられてイササワケ宮に行き、宮に祭られている若くして没した自分の父親の名前「ホムタワケ」を受け継ぐことを報告した。いわば「ホムタワケ2世」となり、後の応神天皇になったと考えるのです。

二つ塚古墳は応神天皇の父親の墓

 次に「ホムタワケ」と「ホムタワケ2世」がいたのではないかという事を裏付けるものとして、誉田御廟山古墳と二ツ塚古墳を見てみましょう。
 誉田御廟山古墳は大阪府羽曳野市にあり、墳丘長425メートル、大仙陵古墳に次ぐ巨大古墳です。被葬者は応神天皇と言われています。この古墳には陪墳(陪冢=バイチョウ)と考えられる古墳が5基ほどあるそうですが、誉田御廟山古墳に食い込むように位置している二ツ塚古墳は誉田御廟山古墳より30~50年前に造られたと推定され、大きさも墳丘長110メートルと、他の陪墳とはだいぶ違うようです。「二ツ塚古墳を意図的に陪墳に取り込んだとみる人もいるが、その場合でも、誉田山古墳の設計段階はおろか、古墳をどこにするかの土地選定以前に二ツ塚古墳が造営されていたことは変わらない」と森浩一氏も「記紀の考古学」に書かれています。さらに「誉田御廟山古墳が二ツ塚古墳をさけて壕と堤がくびれたのだ」とか「この二つの古墳には特別な関係があったのではないか」などと多くの方が言っています。
 応神天皇の巨大な墳墓が小さな墳墓を、形をゆがませてまで避けなければならなかった特別な関係とは、小さな古墳が父ホムタワケのものだったということだと私は考えます。ホムタワケ2世である応神天皇の墳墓は、若くして没した父ホムタワケの墳墓の隣に造ることになった。作っているうちに計画より大きくなったのか測量の狂いのためなのか、父の墳墓にかかってしまい、形を変形させたのではないだろうか。関係の希薄な墳墓であれば壊していてもおかしくないことを思えば、二ツ塚古墳は父親のホムタワケの墳墓だったと言えるのではないでしょうか。

応神天皇も仁徳天皇も「オオサザキ」

 神功皇后が長く摂政を続けたことの謎解きは、誉田御廟山古墳と二ツ塚古墳」で、応神天皇が神功皇后の孫「ホムタワケ2世」であるというところまでたどり着きましたので、みなさんが唐突感を感じられた「ホムタノヒノミコオオサザキの謎」を解いてみたいと思います。

 古事記の応神天皇の条に次のような文があります。

又吉野之國主等、瞻命之所佩御刀歌曰、
本牟多能 日能美古 意富佐邪岐 意富佐邪岐 波加勢流多知 母登都流藝 須惠布由 布由紀能須 加良賀志多紀能 佐夜佐夜
また吉野の國主等(クズドモ)、大雀命(オオサザキノミコト)の佩(ハ)かせる御刀(ミタチ)を瞻(ミ)て歌ひけらく、
品陀(ホムタ)の日の御子 大雀 大雀 佩かせる太刀 本(モト)つるぎ 末ふゆ 冬木如(ノ)す からが下樹(シタキ)の さやさや
ー倉野憲司校注『古事記』岩波文庫

 この文脈だと「大雀命」は当然応神天皇ということになりますが、ちょっと待ってください、「オオサザキノミコト」というのは仁徳天皇のことではありませんか。仁徳天皇は、漢字表記こそ違いますが「大鷦鷯天皇(オオサザキノスメラミコト)」という和風諡号で、応神天皇は誉田天皇(ホムタノスメラミコト)のはずです。そのため応神天皇と仁徳天皇は同一人物だという説まで飛び出す始末です。それでは、この歌が何を言っているのでしょうか。二つの現代語訳をお読みください。

天子樣の日の御子であるオホサザキ樣、オホサザキ樣のお佩はきになっている大刀は、本は鋭く、切先(キッサキ)は魂あり、冬木のすがれの下の木のようにさやさやと鳴り渡る。
ー 武田祐吉訳『古事記』角川文庫

ホムタノ日の御子であるオホサザキノ命の帯びておられる太刀は、本の方は鋭い剣で、末の方には霊威がゆれ動いている。冬の枯れ木の下に生えた木のように、さやさやと揺れていることよ
ー 次田真幸訳『古事記全注』講談社学術文庫

 このほかにも現代語訳はあるようですが、古事記の大家と講談社の出版物の二つの訳を読んで、何を言いたい歌なのかお解りになりますか。私にはどうもよく解りません。そこで私流の解釈を試みましょう。

【朝倉未魁訳】
ホムタの日の御子(応神天皇)はオオサザキ命です。オオザキ命の帯びている太刀は御世を治める奇しき大樹です。その末の民は恵みに満ちています。恵みの樹は大きくなっていきます。だから樹の下にいる我ら民は心地よく過ごせます。


「おいおい、どうしてそんな訳になるんだ。それこそ新説異説どころか珍説奇説じゃないか」という声が聞こえてきそうです。少し説明しましょう。

●「本(モト)つるぎ」の「モト」は「治世の大本」、「ツ」は「~の」。これを「御世を治める」としました。「ルギ」はホツマツタヱ23綾296の「ルギノホ(『ル(霊)ギ』の炎を言い、『ぎ』は木が枯れたもので、この世に思いを残さないということである。」に関連付けて考え、「邪心のない霊力を持つ樹」として「奇しき大樹」としました。

●「末ふゆ」の「スエ」は先端ではなく末の者とか子孫を表わしていると読み、応神天皇の下にいる民という意味で「末の民」としました。「フユ」は「みたまのふゆ」の「ふゆ」とし、「恩頼」、すなわち神や天からさずかるめぐみ深いたまもの。また、その恩恵(広辞苑)と解釈して「恵みに満ちている」としました。

●「冬木如(ノ)す」の「フユ」も、原文では必ずしも「冬」を意味しているとは言えないので、前述の「恵みに満ちている」の意とし、「ノス」は「伸びていく」と解釈して、「恵みの樹は大きくなっていく」としました。

●「からが下樹(シタキ)の」の「カラ」は「幹(カラ)」と読み、応神天皇を暗示する樹の幹としました。そして「シタキ」は下に生えている木、すなわち天皇のもとに庇護されている民のことになります。

●「さやさや」は「清いさま、さっぱりしているさま」を表す語で、「心地よく」と訳しました。


 このように、この歌は民が応神天皇を称えている歌なのです。すると、「ホムタノヒノミコオオサザキ」の「オオサザキ」は応神天皇でよいことになり、疑問は解決されないことになりそうですが、ここで思い出していただきたいのは、応神天皇は前段では「ホムタワケ2世」としか書いてありません。すわち「ホムタワケ2世」は「ホムタワケ」の名を継いだけれど、もともとは「オオサザキ」という名前だったと考えます。だからケヒの神に預けた自分の元の名前の「オオサザキ」も民には十分知られていたと考えます。そして、応神天皇はその神に預けた「オオサザキ」を我が子に付けたのです。それで仁徳天皇は「「大鷦鷯天皇(オオサザキノスメラミコト)」となったので、応神天皇と仁徳天皇が同一人物だとか、架空の人物だなんてことはないのです。