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15-141 イマシメト アマネクフレシ
食べるときの戒めとして、広く触れた。
15-142 アヤマラハ タトエイノチハ
以上のことを守らなかったら、例え命を
15-143 オシマネド チケガレユエニ
惜しまないとしても、血が穢れるので
15-144 タマノヲモ ミタレテモトニ
タマの緒も乱れてしまい、天上に
15-145 カエラネバ タマシヰマヨヒ
還れず、タマとシイが迷って
クルシミテ ケモノノタネオ
苦しみ、獣の命と、人のタマとシイとが
【ケモノノタネオ アイモトム】 獣の命に人のタマとシイが惹かれる。すなわち獣に生まれ変わる。
15-147 アイモトム トリモケモノモ
引き合い、獣に生まれ変わってしまう。鳥も獣も
15-148 ツキヒナシ ソロハツキヒノ
月と日の精気がないが、田畑の穀物は月と日の
ウルナミゾ ユエニコタフル
精気が注がれているのである。それ故、人が田畑の穀物に適応できるのは
【ウルナミ】 14綾では、人間の営みのことだから「精気を得た精水」と訳したが、ここは田畑の穀物のことなので、月と日から注がれる精気とした。
ヒトハモト ナカゴココロバ
もともと人の心の働きをするところが
【ナカゴココロバ】 「ナカゴ」は心。「ナカゴココロバ」は心の働き。
15-151 ヒツキナリ スグニマカレハ
日と月の精気でできているからだ。正しい食生活をして亡くなれば
15-152 アヒコタエ アメノミヤヰニ
天の神と呼応し、天上の宮に
15-153 カエサント ケモノニナルオ
神が還そうとして、獣になるのを
15-154 トトムナリ ワガツネノミケ
防いでくれる。吾は、日常の食事に
15-155 チヨミグサ ヨノニガナヨリ
千代見草を食べている。それは世の中にある苦菜より
15-156 モモニガシ ニガナノミケニ
百倍も苦い。苦菜を食べて
15-157 ナガラエテ タミユタカニト
長生きをして、民が豊かになるようにと
15-158 クニヲサム ワレミルススキ
国を治めているのである。吾はマサカキが
15-159 チヱヨタビ ワガミモコトシ
千本の枝を出したのを四回見てきた。わが身も今年で
15-160 フソヨヨロ イマダサカリノ
二十四万歳になったが、今でも元気な
15-161 カキツバタ ノチモモヨロオ
カキツバタのようで、これからも百万年も
15-162 フルモシル クスヒヨクキケ
生きると思う。クスヒ、よく聞け。
15-163 ココリヒメ カタレルコトハ
ココリ姫の話によると、
トコタチノ ヤモオメクリテ
昔、クニトコタチが国中を巡り、その一人が
【トコタチノ ヤモオメクリテ ニシノクニ】 「トコタチ」はクニトコタチ。クニトコタチと呼ばれる時代は長く続いた。ここの「トコタチ」は2綾の話にあるクニトコタチより何代も時代が下って、その一部がカの国を拓いたのではないかと考える。この後にコロビンキミ・シナギミという名が出てくるので、この人物を「コロビンキミ」と考えた。それは名前から考えても大陸から来た渡来人であろう。
 その都度触れ、新説異説でも詳しく述べるが、そのコロビンキミ・シナギミという人物を私は「徐福」ではないかと考える。とするとアカガタノトヨクンヌは徐福だということになる。徐福は仙薬を探す口実で始皇帝の元を逃れ、我が国にやってきた。この国に永住する覚悟であったからこそ、伝えられているように、子ども(若者)や技術者、学者、弓の名手などあらゆる層の人を連れ、数多くの文物も持ち込んできたのではないか。各地に徐福伝説が残っているのは、徐福一行は船団を組んでやってきたが、航海中にバラバラになってしまったのか、あるいは意図的にいくつもの集団に別れて、国中の良い場所を探したということなのだろうか。そして、徐福は九州の佐賀から筑紫平野一帯に定住することを狙い、政治の中枢とも近づいている。新しい文化を得たいヤマトの為政者と徐福の願いとが一致して、徐福は九州に「平原広沢」を得たのだろう。私はその時期をイサナギ・イサナミの頃と考えているが、そのようにして、徐福は西の国に定住することになったのだと考える。
ミシノクニ クロソノツミテ
西の国に着き、そこに農地を拓いた。
【クロソノツミテ】 難解な言葉である。「クロ」は黒い土。黒土は農業や園芸に使われる。「ソノ」は農地。「ツミテ」はこのあとに「ツモル・ツメル」と、あたかも動詞の語尾変化のようにして出てくるので、動詞の「積みて」と考え、「増やすこと」と考えてみた。すると概ね「農業に適した黒土で農地を開拓した」という意味に思われる。徐福一行はここで農地を開拓したのであろう。佐賀県辺りの人の骨格が大陸の人と似ていると言われることや、吉野ヶ里遺跡の環濠集落、墳丘墓、高床式倉庫なども中国の物と似ていると言われることから、私は西の国は吉野ヶ里遺跡辺りではないかと想像する。別の視点で「クロ」と関連する言葉を探したところ、明解古語辞典に、舞楽の曲名として「くろばせ・崑崙八仙」という言葉を見つけた。これによれば、「クロ」は崑崙の省略形とも考えられる。徐福一行の出身地の信仰の山が崑崙山であったことを考えると、コロビンキミは「崑崙キミ」ということかもしれない。「クロ」はコロビンキミもしくはコロビンの国ということも表しているのかもしれない。
15-166 カニアタル ナモアカガタノ
それがカの国である。そこの国君の名はアカガタノ
15-167 トヨクンヌ ヨヨヲサムレト
トヨクンヌといった。しかし、その国を治めてから
トシオヘテ ミチツキヌルオ
数年で政が行き詰った。
【トシオヘテ ミチツキヌルオ】 「トシオヘテ」を「数年」としたのは、私はコロビンキミを徐福として訳しているので、ウケステ姫がタマキネを訪ねるまではそれほど年月が経っていないと考えたから。ミチが尽きたというのは、ヤマトとの関わりの中で齟齬が生じてきたのではないかと考える。そのためウケステ姫がヤマトの政のやり方を学びに行ったのではないか。
ウケステメ ネノクニニキテ
妻のウケステ姫がカの国からネの国に来て
【ウケステメ】 ウケステ姫。ウケ継いだ家系を捨てて渡来人である徐福と結婚したのでこのように呼ばれたのであろう。「ステ」が付く名前は9綾本文144にも「ステシノ」が出てくる。ステシノも家系から離れてオグラ姫の婿となった。
15-170 タマキネニ ヨクツカフレハ
タマキネによく仕えたので、
15-171 ミニコタエ ココリノイモト
タマキネは大層感じ入って、ココリ姫の義妹として
ムスバセテ ヤマノミチノク
縁を結ばせた。そして『ヤマトの、世を治める奥義』を
【ヤマノミチノク】 「ヤマ」はヤマトの略、「ミチノク」は道の奥義と解釈した。ウケステメは国の立て直しを学びに来て、「奥義」を授かったので喜んで帰ったのであろう。
15-173 サヅケマス ヨロコビカエル
授けた。喜んでカの国に帰った
ウケステメ コロビンキミト
ウケステ姫はコロビン君と
【コロビンキミ】 解釈ノート164で述べたように徐福と考える。
チナミアイ クロソノツモル
睦まじく暮らし、農地を拓くたくさんの
【クロソノツモル】 解釈ノート165で述べたように「農地を拓く」という意味で解釈したが、コロビンキミが徐福だとすると、たくさんの子どもたち(クロソノに積もるほどの子ども)を連れてきたことを意味しているともとれる。
15-176 ミコウミテ ニシノハハカミ
御子を生んで、西の母カミと呼ばれた。
マタキタリ コロヤマモトハ
ウケステ姫がまたネの国に来て言うには、『コロヤマモトの人たちは
【コロヤマモト】 コロビンキミのいた所の山の麓。解釈ノート165のようにそこが吉野ヶ里だとすると、その山は背振山ではないかと思われる。徐福は背振山を神仙思想の聖なる山である崑崙山と見立てたのだろうか。
15-178 オロカニテ シシアヂタシミ
愚かで、肉を好んで食べるので
ハヤカレシ モモヤフモモゾ
早死にし、百歳二百歳位で死ぬ人も多くいます。
【モモヤフモモゾ】 「10代か20代」と考えるのが妥当であろう。次行の「チヨロ」は100歳程度と考える。
15-180 タマユラニ チヨロアレトモ
稀には千万歳生きる人もいるけれど
ヒヒノシシ シナキミイデテ
いつも肉を食べているので、シナギミが出かけて行って
【シナキミ】 秦の君。コロビンキミ、すなわち徐福。
15-182 チヨミグサ タヅヌトナゲク
千代見草を探しています』と嘆いた。
15-183 ワガミミモ ケガルルアカオ
それを聞いて、吾の耳も穢れたので、
15-184 ミソギセシ ナガラフミチオ
禊ぎをしたのだ。民が長生きする生き方を
15-185 ヨロコベハ カレオナケキテ
喜ばしいと思い、早死には嘆かわしいので
15-186 ミチサヅク オモエイノチハ
ウケステ姫に長生きの秘訣を授けた。命は