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ミノリヱテ イマニナガラエ
教えを得たので、今まで家系が絶えることが無かったと、
【イマニナガラエ】 永らえるというのは、一人が長生きすることではなく、その家系が長く続くこと。例えば武内の宿祢が何百年も生きたように言われるが、そんなことは絶対になく、歌舞伎役者や伝統工芸家が名跡を継ぐのと同じように代々名前を継いでいるのであろう。
32-107 キミヱミテ コノタケトメオ
君は喜び、タケヒテルの子のタケトメを
トミニコフ タケツツクサノ
臣としたいと言われた。これがタケツツクサの
【タケツツクサノ マツリツグ タケダノヲヤゾ】 「タケツツクサ」とは何であろう。新潟市にある弥彦神社の摂社である今山神社の祭神が建筒草命であることから、「タケツツクサ」を人名とする説が多いようである。「タケツツクサノマツリ」と言われるような人だとすると、どこかに書かれていてもおかしくないはずだし、「タケツツクサノマツリ」とはどんなものかも書かれていてもいいのではないか。そしてそれがどうして「タケダ」となるのか、不明なことが多すぎるように思う。それを解明するヒントとして私は「新撰姓氏録」の神別の403番目にある「湯母竹田連」に注目したい。そこに次のようなことが書かれている。
「火明命五世孫建刀米命之後也。男武田折命、景行天皇御世、擬湯殖賜田。夜宿之間、菌生其田。天皇聞食而賜姓菌田連、後改為湯母竹田連。」
要約すると、「(湯母竹田連という姓は) ホノアカリ命の五世孫タケトメ命の後裔のタケダヲリ命が、景行天皇より農作を広めさせるように田を賜ったところ、一夜にしてその田に茸が生えた。 天皇がそれをお聞きになり、菌田連(タケダノムラジ)という姓を賜った。それを後に改めて「湯母竹田連」とした。」となり、ここから「ニニキネ―ホノアカリ―タケテル―(  )―タケヒテル―タケトメ・・・・・タケダヲリ」という家系が見えてくる。このタケダヲリ命が、「タケツツグサノマツリ(茸をその地の特産物として農業を進める)」を行い、その功績で「タケダ」という姓を天皇より賜ったということではないか。すなわち「タケツツグサ」とは「茸」のことであり、「タケダ」は「タケツツグサの田=菌田」を意味していたと考える。
32-109 マツリツグ タケダノヲヤゾ
政を続けている竹田の祖先である。
32-110 カンタカラ イツモニオサム
その神宝の文は出雲に納めた。
ヰソミトシ ニシナカオエズ
五十三年、ニシナカクニに跡継ぎが生まれなかったので、
【ニシナカオエズ】 「オエズ」は「生えず」と読み、子どもを産まなかったこととした。「オエル」は34綾本文096にも「妃が御子を産んだ」と訳せる「キサキモオエテ」という用例がある。ニシナカクニに跡継ぎがなかったので、ヤマトフトニ(孝霊天皇)は皇子のヤマトヰサセリをニシナカクニの君にしようとし、ヤマトヰサセリの兄弟のヱワカタケヒコとトワカタケヒコを吉備の説得に当たらせるため同行させたと解釈した。「マツロワス」という言葉があるため、戦いをしたと解釈する向きもあるが、「ソノワケトキテ マツロワス」という表現からは戦いがあったとは考えられない。そこで、私は次のように想像した。桃太郎伝説の鬼とされる家臣の「温羅(ウラ)」は人々に慕われる人物であったという話もあり、君に跡継ぎがいなくても、ニシナカクニは平穏だった。そこに朝廷から跡継ぎが送り込まれることになり、何らかの抵抗はあったものの、朝廷に従うことになった。まさに、桃太郎は吉備の説得に当たったヱワカタケヒコ、トワカタケヒコのことで、二人はそれから吉備を治めたと考えられ、ヤマトヰサセリも合わせた三人は吉備津彦命として岡山市の吉備津彦神社(3社ある)に祭られている。
32-112 チノクチト ハリマヒカワニ
チノクチと播磨のヒカワへ、
32-113 インヘヌシ ヤマトヰサセリ
ヤマトヰサセリに忌部主を
32-114 コレニソエ ヱワカタケヒコ
付けて下した。ヱワカタケヒコをは
32-115 キビカンヂ トワカタケヒコ
吉備上道に、トワカタケヒコは
32-116 キビシモヂ ソノワケトキテ
吉備下道に遣わした。跡継ぎを下したわけを説いて
32-117 マツロワス イササワケエハ
従わせた。イササワケ宮には
32-118 ヒコサシマ コシクニオタス
ヒコサシマを差し向け越国を治めさせた。
32-119 ナソムトシ キサラギヤカニ
七十六年二月八日
32-120 キミマカル トシモモソヤゾ
君が崩御した。齢は百十八歳であった。
32-121 ミコノモハ ヨソヤニヌギテ
皇子は喪の衣を四十八夜で脱ぎ、
32-122 トミトトム ムトセタツマデ
元の臣は黒田の廬戸宮に留めて、六年間
32-123 ミアエナス イマスゴトクニ
亡くなった君に御神撰を奉げた。まるで生きているように
32-124 ウヤマヒテ トミモヨオサル
敬っていた臣達も亡くなった。
カリトノミ ヲヤニツカフル
殯(カリモガリ)の殿の宮で長く親に仕えたことは
【カリトノミ ヲヤニツカフル マコトナルカナ】 「カリ」を「殯(モガリ、カリモガリ)」の「カリ」と考え、「カリトノミ」は「殯をする宮」すなわち廬戸宮と解釈した。広辞苑に「『殯』は貴人の本葬をする前に、棺に死体を納めて仮に祭ること」とある。君を受け継ぎ新しい宮に遷った後も、元の臣たちと6年もの間、殯の宮で亡くなった親に尽したことを称えていると解釈した。
32-126 マコトナルカナ      
まことに立派なものである。
32-127 トキアスス ヰモヨホムツキ
アスス五百四年一月
32-128 ソヨカキミ アマツヒツギオ
十四日、皇子は君の御位を
32-129 ウケツギテ ヤマトクニクル
受け継いでヤマトクニクル
32-130 アマツキミ アメノミマコノ
アマツキミとなった。天御孫の
32-131 タメシナリ カサリオタミニ
しきたりによって、正装の姿を民に
32-132 オガマセテ ミウエキサキト
拝謁させた。御上后として
32-133 ハハオアゲ ソフノツホネニ
母の御位を上げた。十二の局に
32-134 キサキタツ ヨトシノヤヨヒ
それぞれ妃を入れた。四年三月
ニイミヤコ カルサカイバラ
新宮を軽境原に遷した。
【カルサカイバラ】 奈良県橿原市見瀬町の牟佐坐(むさにます)神社境内に「孝元天王軽境原宮跡の石碑があり、近鉄吉野線をはさんだ道路わきにも「孝元天皇境原宮趾」の石碑が建っている。
ヰホミナツ ウチウツシコメ
五年六月ウチ妃のウツシコ姫が
【ヰホミナツ】 「ヰホ」は5年。「ミナツ」は水無月、6月。
32-137 ウムミコハ ヤマトアエクニ
産んだ皇子はヤマトアエクニ
オオヒコゾ ムホナヅキムカ
オオヒコである。六年九月六日、
【ナヅキ】 長月、9月。
32-139 イホドミヤ オモムロオサム
廬戸宮の君(ヤマトフトニ)の遺骸を
ムマサカヤ ナホキサラフカ
馬坂に葬った。七年二月二日、
【ムマサカ】 奈良県王寺町に片丘馬坂陵(孝霊天皇陵)がある。
32-141 ウツシコメ ウチミヤトナル
ウツシコ姫が后になった。
32-142 ウツシコヲ ナルケクニトミ
ウツシコヲはケクニ臣になった。
32-143 シワスハツ ヒノデニキサキ
十二月一日の日の出の時に后が
32-144 ウムミコハ イミナフトヒヒ
産んだ皇子は、諱フトヒヒ、
32-145 ワカヤマト ネコヒコノミコ
ワカヤマトネコヒコの皇子である。
32-146 コホノナツ アメヨソカフリ
九年の夏、雨が四十日も降り
32-147 ヤマシロタ アワウミアブレ
山背の田に淡湖の水が溢れ出し、
32-148 サモミモチ ナゲキツクレバ
早苗もいもち病になり、民が嘆き訴えてきたので、
32-149 ミコトノリ ミケヌシヲシニ
君は詔を下し、ミケヌシを勅使として遣わして
32-150 イノラシム アワクニミオニ
祈らせた。アワ国の三尾に
32-151 タナカカミ ハレオイノリテ
タナカ神を祭って、晴れを祈り、
32-152 ハラヒナス カゼウマツリハ
祓いをした。風生の祭りは
32-153 オオナムチ イツモタナカノ
オオナムチの出雲のタナカ神を祭る
32-154 タメシモテ ミナツキソムカ
前例によって、六月十六日に
32-155 マツリナス ソノヲシクサノ
祭りをした。祭りではオシ草(ヒオウギ)の
32-156 マモリモテ タニヌカヅケハ
祓いの儀式をして田に額づくと
32-157 ヨミカエリ ヤハリワカヤギ
稲は蘇って、この度も生きかえり