先頭の番号が青い行は、クリックすると解釈ノートが見られます。
対訳ページの使い方の詳細はこちらのページをご覧ください。
ムソヤトシ シハスヲナエハ
六十八年十二月ヲナエ朔、
【シハスヲナエハ】 12月ヲナエハの「ハ」は初、1日、朔の日。すると5日はネアエ。
34-256 ヰカネアエ キミコトキレテ
五日ネアエ、君が崩御された。
34-257 モノイワズ ヰネマスゴトシ
黙って寝ておられるような安らかな最期であった。
34-258 アクルトシ ネヤエハツフカ
翌年ネヤエ一月二日に
34-259 アメヒツギ ミヨアラタマノ
イクメイリヒコ尊は君の御位を継がれた。御世が改まった年の
34-260 ハヅキソヒ カミアガリゾト
八月十一日に先の君が崩御されたと
34-261 ヨニフレテ キミトウチトミ
世の中に知らせて、君と前の臣とが
34-262 モハニイリ トノトミヤハリ
喪に服し、後の臣はいつものように
34-263 マツリコト カミナソヒカニ
政に就いた。十月十一日に
オモムロオ ヤマヘニオクル
遺骸を山辺に葬った。
【ヤマヘニオクル】 奈良県天理市柳本町に「山邊道勾岡上陵(崇神天皇陵)」がある。
34-265 コノキミハ カミオアカメテ
この君(ミマキイリヒコ)は神を崇めて
34-266 ヱヤミタシ ミクサタカラオ
疫病を治し三種の神宝を
アラタムル ソノコトノリハ
新しくした。その功績は
【ソノコトノリハ オオヒナルカナ】 「オオヒナルカナ」と讃えているが、この功績は祟りを恐れた結果なのである。日本書紀の垂仁25年の一書に、倭大国魂神が大水口宿禰に乗り移って、次のようなことを言っている。
「先皇の崇神天皇は神祀をお祭りなさったが、詳しくその根源を探らないで、枝葉に走っておられた。それで天皇は命が短かった。」(宇治谷孟氏の全現代語訳日本書紀より引用)
 ここで注目したいのは、「崇神天皇は命が短かった」ということである。岩波文庫版日本書紀の注にも「崇神68年12月条に『崩。時年百二十歳』とあり、ここに短命というのにあわない」と書かれている。その謎を解くカギは次のようである。「新説異説」等でも述べたが、私は、天皇やその関係者には、特別なことがあったりした節目に年齢を加算する習わしがあったと考えている。崇神天皇は、倭大国魂神の告げのような状態が続いていたので、その時点では年齢の加算がされていなかったのではないかと考える。後年、これらの記録が書かれたときに加算されて「120歳」とされたのではないか。
34-268 オホヒナルカナ      
素晴らしいものであった。