先頭の番号が青い行は、クリックすると解釈ノートが見られます。
対訳ページの使い方の詳細はこちらのページをご覧ください。
24-358 コトシタフ フリモワカレテ
ニニキネの子だと言って慕った。ところが風習が違い
24-359 モトタミト ミツギハワカレ
元からいた民とは君への貢物も別々であった。
シワカミノ ミハシラノママ
ニニキネの教えが広がり
【シワカミノ ミハシラノママ】 奉呈文本文016に「シワカミノ ココロホヅマト ナルトキハ」とある。ここでは「ミハシラ」をニニキネと特定して訳したが、心が一つにまとまることを意味するのは同じ。
24-361 ナルコトク マツリホツマニ
民の心に満ちて、政は大変素晴らしく
24-362 トトノヒテ フヨロヤチヘテ
整った。長い年月を経て
24-363 ミソススノ コヨミナスコロ
三十スズの暦に入ったころには
24-364 クニノナモ シハカミホツマ
国の名もシワカミホツマと呼ばれるようになった。
24-365 アマネクニ ウツリタノシム
ニニキネは至る所を巡り歩いて楽しみ
24-366 ヨヨユタカ ヤヨロトシヘテ
世の中は豊かになった。長い年月が経ったとき
24-367 ヒタカミノ キミヨリメセバ
ヒタカミの君オシホミミに呼ばれたので
24-368 モロトモニ ミヤニノボレバ
ニニキネはホノアカリと二人で、宮に上った。
24-369 チチミカド ミコフタカタニ
父のオシホミミは皇子の二人に
24-370 ミコトノリ ワレヨワイオイ
話された。「吾は大変歳をとり、
24-371 ヒタルユエ イマヨリアニモ
まもなく命が尽きるだろうから、今より、兄は
24-372 ナハヤマト アスカヲキミト
名をヤマトアスカ御君とし、
24-373 ハラヲキミ トモニムツミテ
弟はハラ御君とする。二人仲良く
24-374 ヱトカミノ ソノヒソノタミ
エトの神がそれぞれの日に民を
24-375 モルゴトク ヱトシカトキケ
守るように、民を守りなさい。汝ら兄弟よ、心して聞け。
24-376 クニタミオ ワガモノニセナ
国の民を我が物のようにしてはいけない。
24-377 キミハソノ タミノキミナリ
そもそも君は、民のための君なのだ。
24-378 タハハコネ フタヱメクミゾ
父は近々箱根の洞に入る。汝ら二人は慈愛の心を持って
24-379 カニメデル キミハガモナシ
公正に民を大事にしなさい。君たるものは邪心を持ってはいけない。
24-380 フタモナシ カミノカガミノ
裏表があってもいけない。人の上に立つ者の鑑となって
24-381 アマテラス ヒツギノキミト
人々に恵みをもたらす世継ぎになるように
24-382 マモルハコネゾ      
箱根の洞で見守っていよう」
24-383 ツイニホル ヰヅヲバシリノ
オシホミミはついに、伊豆ヲバシリの
24-384 ホラアナニ ミツカライリテ
洞穴に、自ら入って
ハコネカミ マツリテノチニ
箱根神となった。父を祀った後、
【ハコネカミ】 ハコネカミが祭られたのは箱根神社と思われるが、現在の箱根神社の祭神はニニキネ、コノハナサクヤ姫、ヒコホホデミの三神。いつの時代かにオシホミミとニニキネが入れ替わってしまったのだろうか。
24-386 ハラヲキミ ノコシコトヨリ
ニニキネは、父の遺言を守り
フタタミノ アラソイアレバ
二つの民の争いがあれば
【フタタミ】 元からいた民と新治から来た民。
24-388 トミヤリテ ヤワシサバキテ
臣を遣わして、和解させるように裁いた。
ナニコトモ オタミオタテテ
何事も、元からの民を立てて
【オタミ】 「ニイタミ」の対として、元々富士の裾野にいた人たちのことを表わしている言葉。その人たちに敬意を表す「御」の意の「オ」ではないか。また「オ」を「峰、丘」と読み、裾野の人達を表したとも考えられる。
24-390 ニイタミノ カケハハラヨリ
新治からの民の足りないところは、ニニキネが
24-391 ツクナワス カレニヨノウチ
償った。故に国の中は
ムツマシキ ヱトオナツケテ
大層睦まじくなった。兄弟を
【ヱトオナツケテ ハラカラト】 「ヱト」は兄弟のことであるが、ここでは睦まじくなった「オタミ」と「ニイタミ」を言っていると考えられる。二つの民はハラヲキミ(ニニキネ)の柄(カラ・同じ血のつながりを持つこと) になったということだろうか。「カラ」はそれほどに近しい間柄になったことを表わしている。兄弟姉妹や同胞をいう「ハラカラ」の語源であろう。
24-393 ハラカラト イフモトオリソ
「はらから」というもとになったことである。
ハラヲキミ イツサキミヤニ
ニニキネはイツサキ宮に
【イツサキミヤ】 本文206に出てきた「ヰツサキノカリヤ」。
24-395 ハコネカミ ミトセマツリテ
箱根神を三年間祭った。
24-396 オキツボノ ミネヨリナガメ
ニニキネは近江の峰に登って一帯を眺め、
24-397 ミコトノリ ナンヂヤマクイ
詔を下した。「汝ヤマクイ、
ヤマウシロ ノオホリツチオ
山の裏側の野を掘って、その土を
【ヤマウシロ】 この後に出てくる「ヒヱノヤマ」「ミゾロイケ」「イシカワ」という地名を元にすると、比叡山であろう。
【ノオホリツチオ ココニアゲ】 解釈ノート161と同じようなこと。新田開発の際の治水工事の起工式のようなものと解釈した。
24-399 ココニアゲ オオヒノヤマオ
積み、オオヒの山(ハラミ山)と
ウツスベシ ヒトヱタニタリ
同じように新田を開発しなさい」一枝のうちに池を造ったので
【ヒトエタニタリ】 「ヒトエタ」は60年。それほど長くかかったとは考えられない。仮に6年であってもこのような表現をしたであろう。
24-401 ヒヱノヤマ ソノイケミツガ
ヒエ(一枝・比叡)の山と呼ばれた。その池の水が
24-402 タノソロニ ノリテミノレハ
田に行き渡って稲がよく実ったので
ミソロイケ ママアリイケノ
ミソロ池(御稲池)と呼ばれた。しばらくしてから池の
【ミソロイケ】 比叡山の西、高野川と賀茂川の間に「深泥池(ミドロイケ、ミゾロイケ)」という池がある。これが「ミソロイケ」ではないか。その水を「イシ川」に流したとあり、「石川は賀茂川である」(窪寺紘一)という説にも一致する。
【ママアリイケ】 「ママアリ」は「ママアリ池」という説もあるが、「ママアリ池」が特定できないので、「ママあって」という副詞的用語と解釈し、「しばらくして」とした。
24-404 ニシイワヤ ミハムヰシナオ
西の岩場で水を流れにくくしている石や砂を、
24-405 イツワケテ ナガスイシガワ
非常に苦労して拓き、イシ川に流す
24-406 セキイレテ アレワオイケテ
井堰を造り、荒れ地を活かして潤った土地にした。
24-407 ナルカミオ ワケテシツムル
雷を水と火に分けて鎮めようと