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31-054 チチニコフ ウナヅキウバフ
そして姫の父親のクメにユリ姫に合わせてほしいと頼み、無理矢理承諾させた。
チチガヨブ アヤシキトメオ
父のクメが姫を呼んだが、異常な要求を
【アヤシキトメ】 「トメ」は「求め」と解釈した。広辞苑では、古事記の「利目」を以て「鋭い目」としているが、古事記とホツマツタヱの人間関係の設定が大きく違っているので、ここでは、困り果てた父親の様子を姫が見て取ったのだと解釈した。
31-056 サトルヒメ ミサホツズウタ
悟った姫は操のツズ歌を詠んだ。
 アメツツチトリマス   
「わたしは君の妃でありたいと思います。
【アメツツチトリマス】 「アメツ」は「君の」。君を表す「アメ」に対して妃を表す「ツチ」
 キミトナドサケルドメ  
誰が君との仲を裂いて娶ることができましょうか。いいえ、できません」
【キミトナドサケルドメ】 「ナド」は「何故、どうして」、「ナ」は「自分、おのれ」の意も表している。「サケルドメ」は「サケル(裂ける)」に「メトル(娶る)」の付いた語であるが、「メトル」をひっくり返して「ルドメ」とすることで否定する意思を表している。これについては39綾本文271~284に詳しく説明されている。
31-059 タギシミコ ススミコタエテ 
タギシミコが進み出て答えた。
31-060  ニヤオトメタタニア   
「愛しい乙女よ、どうしても
 ハントワガサケルドメ  
会いたいと思っているのに、どうしてあなたは我を避けるのでしょうか」
【ワガサケルドメ】 ユリ姫の歌の「サケルドメ」を受けている。「ワ」(土)は、姫の歌の「ツチ」に対応して「妃」を表している。
ヤワナキオ オツテトイエバ
取り付く島もなく、父も「またの機会を」と言うと
【ヤワナキオ】 「ヤワ」は「ヤワス」(和らげる、平穏にする)で、「姫の気持ちを和らげることもなく」ということから「取り付く島もなく」とした。
31-063 ミコモサル コトメガツグル
皇子は帰った。ユリ姫の侍女から知らせを聞いた
31-064 クシミカタ キミニモフサク
クシミカタマが君に申し上げた。
31-065 シムノハチ キミウナツキテ
「これは一族の恥です」君も頷いて
31-066 ヒソカニシ コノタビタマフ
内密にした。この度タカクラシタに賜った
31-067 ヲシモメハ コノユリヒメゾ
オシモメは、このユリ姫である。
31-068 トシサミト ウツキハツヒニ
年サミト四月一日、
ワキカミノ ホホマノオカニ
掖上のホホマの岡に
【ワキカミノ ホホマノオカ】 奈良県御所市に掖上という旧地名があり、本馬という地名がホホマの名残と言われている。
31-070 ミユキシテ メクリノソメバ
御幸された時、君は周囲を一望して
アナニヱヤ ヱツハウツユフ
「『アナニヱヤ』と言挙げした二尊が得た国はすっかりまとめられて
【「アナニヱヤ ヱツハウツユフ…ソラミツヤマト」】 このタケヒトの言葉の訳は、日本書紀やこれまでのホツマツタヱの訳とは全く異なっている。そのカギとなるのが「カタチアキツノトナメセル」という文。岩波文庫版日本書紀の「内木綿の真迮き国と雖も、猶し蜻蛉の臀呫の如くにあるかな」の注に「狭い国ではあるけれども、蜻蛉がトナメして行くように、山々がつづいて囲んでいる国だなの意」とあるが、少なくも代々の君が築き上げた国で、この時代の移動手段からして決して狭い国ではないはずのヤマトを、しかも「神武天皇」と呼ばれるようになる人物が、自分の国をトンボが交尾しながら飛ぶ姿に例えるだろうか。それはないと私は強く思う。では、どう訳すのか。私は「アナニエヤ」にイサナギ、イサナミの国造りの始まりが、また「アキツ」に「チイモアキ」の「アキ」が頭に浮かんだ。それを手掛かりに、このタケヒトの言葉は、ホホマの丘からの眺めに、ヤマトの国の来し方を感慨深く思ったものとして解釈したのである。
【ヱツハウツユフ】 「ヱツハ」は「得たものは」と解釈した。「ウツ」は広辞苑では接頭語として「『まるまる』の意を表す」とある。「ユフ」は結う、ひとまとめにすることとした。
マサキクニ カタチアキツノ
真に幸せな国となった。わずかな土地から、拓かれていない原野まで
【カタチアキツノ トナメセル】 「カタチ」は「片地」と読み、一片の土地、少しの土地と解釈した。「アキ」は2綾本文074の「チイモアキ」の「アキ」で、まだ拓かれていない土地。「アキツノ」は農地として拓かれていない野原。「トナメ」は「歴め(トナメ)」と読み、次々に巡ること。
31-073 トナメセル コレアキツシマ
全て巡り歩かれた。これがアキツシマである。
アマカミハ ヤマトウラヤス
天界の二尊は、アキツシマがヤマトの国になり心安らかであろう。
【ヤマトウラヤス】 「ウラヤス」は「心安」と読み、心中安らかなことと解釈した。これに続けてタケヒトの直系でなかったり問題があったりした国が書かれている。これらの国々も今ではすべてヤマトとして治められている。その安泰をタケヒトは感慨深く思ったのであろう。日本書紀にもこの場面が書かれているので読み比べていただきたい。日本書紀を元にしてホツマツタヱの五七調の格調高い文が書けるだろうか。このようなことからも私にはホツマツタヱが偽書とは到底思えない。
31-075 コヱネクニ ヤマトヒタカミ
コヱネ国、ヤマト日高見、
31-076 ソコチタル シワガミホツマ
サホコチタル、シワカミホツマ、
31-077 オオナムチ タマガキウチツ
オオナムチの玉垣内つ宮(出雲)
31-078 ニキハヤヒ ソラミツヤマト
ニギハヤヒの空見つヤマト、これら全てがヤマトである」と話された。
31-079 ヨソフトシ ハツミカキミエ
四十二年一月三日、キミエ
31-080 カヌナカワ ミミノミコトオ
「カヌナカワミミ尊を
31-081 ヨツギミコ カガミノトミハ
世継ぎ皇子とし、鏡の臣は
31-082 ウサマロト アタツクシネハ
ウサマロ、アタツクシネは
31-083 モノヌシト ミコノモロハゾ
大物主とし、皇子の左右の臣とする」。
クニマツリ ミケナヘモフス
左右の臣は大嘗祭で御神饌を供えた。
【クニマツリ ミケナヘモフス】 「クニマツリ」は大嘗祭と考える。大嘗祭は即位後初めての新嘗祭なので、カヌカワミミは世継ぎ皇子となったとあるが、即位をしたのではないか。しかし、実際にはこのあと4年間、タギシミミが勝手に政を執っている。42年から76年まで、34年もあるようだが、この4年間だったのである。この後に、タギシミミを討ち、正式に即位し年号を変えたことが書かれている。それは、新説異説の年表の項で詳しく述べる。
ヲモチキミ トモニタスケヨ
「君を左右の臣は共に力を合わせて助けよ」と皇が詔された。
【ヲモチキミ】 24綾本文051に、アマテルカミがニニキネに政の仕組みとあり方について述べた所に「クビハキミ」とある。「ヲモチ」は「面持ち」と読み、「クビ」と同義と解釈した。
31-086 ナソムトシ ムツキノモチニ
七十六年一月十五日に
31-087 ミコトノリ ワレスデニヲヒ
君の詔があった。「吾はもう歳をとった。
31-088 マツリコト ナオリナカトミ
政は直り中臣と
モノヌシノ ヲヤコノトミニ
大物主の親子の臣に
【ヲヤコノトミ】 ウサマロとその親のアメタネコ(カンヤマトイハワレヒコの鏡の臣)と、アタツクシネとその親のクシミカタマ(カンヤマトイハワレヒコの剣の臣、大物主)
31-090 マカスヘシ モロトミコレト
任せるがよい。諸臣はこの四人の臣と
31-091 ワカミヤオ タテヨトイヒテ
若宮を盛り立てよ」と言われ、
31-092 ウチニイリ ヤヨヒソキヤヱ
宮内に入り、三月十日、キヤエに
31-093 カミトナル アビラツヒメト
崩御された。アビラツ姫と
31-094 モノヌシノ クシミカタマト
大物主のクシミカタマは
ウチニイリ ナガクモニイリ
宮内に入り、長く喪に服し
【ウチニイリ】 これまでの君は死期を悟ると「洞」に入ったが、「ウチ」という言葉が使われているので宮中の寝所などの最期を迎える場所があったと考えたが、これまでのように洞に入ったのかもしれない。
31-096 イキマスノ ゴトニツトムル
君が生きている如くに仕えた。
31-097 アメタネコ クシネウサマロ
アメタネコとアタツクシネとウサマロとが
31-098 ワカミヤニ オクリハカレハ
若宮に政の引き継ぎについて相談しているうちに
31-099 タギシミコ ヒトリマツリオ
タギシ皇子は勝手に政を
31-100 トラントス ナオリミタリハ
執ろうとした。直りの三人が