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ミナメツム コゾヨリツツキ
みなは感嘆した。去年より続いて
【メツム】 「愛づむ」と読んで、「感嘆する、感心する」と解釈した。
39-333 アメハレテ ムツキスエヤカ
天気がよかったが、一月二十八日に
39-334 ミユキフリ キミソリニメシ
大雪が降ったので、君は橇に乗られて
39-335 ユキイタル サカムノタチニ
相模の館に行き、館に
39-336 イリマセバ ノニカタアブミ
入られた。野に鐙の片方が落ちているのを
39-337 トラガシハ ヒロヒカンガエ
トラガシハが拾って、君にどのようにして渡そうかと考え、
39-338 アブミサシ イマタテマツル
鐙に玉飾りを付けて君のもとに
39-339 タマカザリ ホメテタマワル
届けた。ヤマトタケがそれを褒めて
39-340 ムラノナモ タマガワアブミ
その村の名をタマガワアブミと名付けて与え、
39-341 ミサシクニ サガムノクニト
武蔵の国と相模の国とを
モトヒコニ ナツケタマワル
カグモトヒコに賜り、その
【ナヅケタマワル】 ここは文が交錯しているように思う。村の名前をタマガワアブミと名付け、トラガシハに与え、カグモトヒコを武蔵の国と相模の国の国守とした、ということ。だが、カグモトヒコは元々相模の国の領主であったはずなので、先の戦いの後、改めてヤマトタケの配下になった者への任命なのだろうか。
クニツカミ マチカテチカノ
国守とした。マチカとテチカの
【マチカテチカ】 本文083でヲトタチバナ姫に随行し、相模の小野の城で守りを固めたホツミテシとサクラネマシ。
39-344 トミフタリ ヲトタチハナノ
二人の臣はヲトタチバナ姫の
クシトオビ ウレバナゲキテ
櫛と帯を手に入れて、姫の死を嘆き
【クシトオビ ウレバ】 姫を守っていたホツミテシとサクラネマシが姫の櫛と帯をどのようにして得たのか。船に残された遺品なのか、姫が身に着けていたものが流れ着いたのか、果てしてどちらなのだろうか。
ヒメノタメ ツカリアビキノ
姫のために、「ツカリアビキ」の
【ツカリアビキ】 「ツカリ」は「連り(ツガリ・ツカリ)」と読み、「連なり続くこと」の意から「縁のある」と解釈し、ヲトタチバナ姫と縁のある二人が姫の魂を天に導く祭りと考える。また「ツカリ」を「塚を造り」と読むと、「カタミオココニ ツカトナシ」の「ツカ」とつながるようにも思う。
39-347 マツリナス コレソサノヲノ
祭りをした。これはソサノヲが
39-348 オロチオバ ツカリヤスカタ
大蛇(ハヤコ姫)を縁によって、ヤスカタ
カミトナシ ハヤスヒヒメモ
神とし、ハヤスヒ姫と
【ハヤスヒヒメモ アシナヅチ ナナヒメマツル】 「ハヤスヒ姫」は7綾本文079にアカツチの娘の「ハヤスフ姫」として出てくる。28綾のシマツウシの話で、ハヤスヒ姫はハヤコに殺されたことがわかる。同じく28綾本文295にはアカツチの弟のアシナヅチの8人の娘のうち7人までがハヤコ姫に殺されたと書かれている。これは9綾本文007でソサノヲがサスラになって訪ねた先でのできごとのことである。これらの姫たちを「ツカリ」すなわち縁によって祭ったという前例にならったということ。
39-350 アシナヅチ ナナヒメマツル
アシナヅチの七人の姫を祭ったことを
39-351 タメシモテ カタミオココニ
前例としたのである。ヲトタチバナ姫の形見をここに
ツカトナシ ナモアツマモリ
塚を作って祭り、アツマモリと名付けた。
【アツマモリ】 「吾夫守」と読むと、夫のヤマトタケを守ろうと身を投げたヲトタチバナ姫を表しているように思える。
39-353 オホイソニ ヤシロオタテテ
大磯に社を建てて
39-354 カミマツリ ココニトトマル
ヲトタチバナ姫の霊を祭り、マチカとテチカはこの地に留まった。
39-355 ハナヒコハ ワカサキミタマ
ハナヒコ(ヤマトタケ)は、自分の先御魂を
39-356 シロシメシ カワアヒノノニ
自覚され、カワアイの野に
39-357 オホミヤオ タテテマツラス
大宮を建て、
39-358 ヒカワカミ イクサウツワハ
氷川神(ソサノオ)を祭らせた。武具は
39-359 チチブヤマ キサラギヤカニ
秩父の山に納めた。二月八日に
39-360 クニメグリ マツラフシルシ
国々を巡り、服従した印に
39-361 カグカゴオ ヤムネニササゲ
香久の枝を立てた籠を屋根の棟に捧げさせ
39-362 コトヲサメ ホツマノヨヨノ
戦を終わらせた。これはホツマの国に広く伝わる
39-363 ナラハセヤ ウスヰノサカニ
習わしとなった。碓氷峠の坂で
39-364 ヤマトタケ ワカレシヒメオ
ヤマトタケは死に別れたヲトタチバナ姫を
オモイツツ キサオノゾミテ
思いつつ、東南の方を望み
【キサオノゾミテ】 碓氷峠から東南の方角にヲトタチバナ姫が身を投げた大磯から上総へ行く相模灘が位置する。
39-366 オモヒヤリ カタミノウタミ
姫を忍んで形見の歌札を
39-367 トリイダシミテ      
取り出して見た。
サネザネシ サガムノオノニ
「真に雄々しいお方。相模の小野の城が
【サネサネシ】 大辞林には、古事記の「サネサシ」を出典として「さがむ(相模)にかかる。語義・かかり方未詳」とある。私は「サネ」を「実」と読み、「物事の中核となるもの、根本のもの」ということから、人の理想的な姿、ここでは雄々しい姿と解釈した。
39-369 モユルヒノ ホナカニタチテ
炎に包まれているその火の中に立って
39-370 トヒシキミハモ      
訪ねて来てくださった君は」
コレミタビ アヅマアワヤト
この歌を三度詠って、「ああ、吾が妻は吾のすべてだった。」と
【アヅマアワヤ】 7綾本文146のワザオギの歌に「アガツマアワヤ」という言葉が出てくる。そこでは「我が妻は天地だ」と訳した。それは、妻は我の全てだというようにも言い換えられると思う。この場面でもヤマトタケは「ヲトタチバナ姫は自分のすべてだった」と嘆いたのではないか。
39-372 ナゲキマス アヅマノモトヤ
嘆いた。これがこの地を「吾妻」と呼ぶ謂われである。
39-373 オイワケニ キビタケヒコハ
追分でキビタケヒコには
39-374 コシヂユク クニサカシラオ
越路を行かせ、越の国の様子を
39-375 ミセシムル タケヒハサキニ
見させた。タケヒを先に
39-376 サカムヨリ ヱミシノミヤゲ
相模から蝦夷の土産を
39-377 モチノボリ ミカドニササゲ
持って都へ帰らせ、帝に捧げて
39-378 コトコトク マツラフカタチ
蝦夷がことごとく服従した様子を
39-379 モフサシム ヒトリミユキノ
報告させた。二人と別れ一人になった
39-380 ヤマトダケ シナノキソヂハ
ヤマトタケは一行を連れて進んだ。信濃の木曽路は
39-381 ヤマタカク タニカスカニテ
山が高く谷は深く