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【ツアエハル】
和仁估本では「ツアエ」となっているが、計算すると1年ずれているので、訳は「ツアト」とした。
【スエヒカ】
「ヒカ」は1日。月のうちの末の1日は21日。
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若宮、諱ヤスキネは
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五十二歳で皇の位を
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受け継いで、カヌガワミミの
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天君となり、タカオカ宮の
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元年とした。昔からの慣わしで
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正装の姿を民に拝謁させた。
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母親の御位も上げて、御上后とした。
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九月十二日、ツミヱ
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父、カンヤマトイハワレヒコの遺骸をカシオに葬った。
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その時の様子は、アビラツ姫と
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ワニヒコが、亡き君への思いを問わず語りして悼み、
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そばに侍っていた。君と、臣のワニヒコが
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洞に入って一緒に亡くなったことを
【オイマカルモノ ミソミタリ】
この時に殉死の習慣が生まれた。崇神天皇の時代までこの習慣は続いたが、望まぬまま殉死させられたり、鳥獣に遺骸を荒らされたりして、垂仁天皇のときに廃止され、埴輪に変わった。
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三十三人もいた。その後、人々の間にこんな歌が歌われた。
【アマミコ】
カンヤマトイハワレヒコのこと。
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三十三人も後を追った。忠義も操も
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尽し甲斐のある天君だった」
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二年春、ミスズヨリ姫は
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内つ宮に、シギクロハヤの娘の
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カワマタ姫はオオスケ妃に、
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アタの孫のアタオリ姫は
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スケ妃になった。カスガアフエモロの
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娘のイトオリ姫を
【ココタヘ】
役割として「長橋の局の璽を守る」とあり、広辞苑に「こうとうのないし(勾当内侍)掌侍(ないしのじょう)4人の中の首位のもの。奏請・伝宣をつかさどる。長橋の局。長橋殿。」とあるので、後の「勾当内侍」と言われる立場であろう。
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璽を守っていた。葛城の国造の
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ツルギネの娘のカツラ姫を
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ウチ妃に、妹のカツラヨリ姫を
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シモ妃に、アメトミの娘の
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キサ姫もシモ妃にした。また
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侍女が三十人決まった。八月一日に
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詔があった。「吾は、次のようなことを聞いた。昔
【オオナムチ コトナストキ】
このオオナムチは5代目大物主フキネ。27綾本文284に書かれていること。
【ミモロカミ】
2代目大物主クシヒコ。23綾本文384に三諸の山で洞を掘り亡くなったことが書かれている。オオナムチ、ヤマトヲヲコノミタマカミ、ヲコヌシカミ、大国魂、三輪の神とも呼ばれる。
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ほとんどの大仕事を成させた
【サキミタマ】
「幸御魂」と読み、「人に幸福を与える霊魂」(広辞苑)とも、「先御魂」と読み、先祖神とも解釈できる。
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ワニヒコである』と言った。そこでオオナムチは
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ワニヒコを世継ぎとした。三代にわたって大物主が
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大事業をしたので、一人ワニヒコは直系ではないが
【ミタリメノ ワニヒコマテガ ミワノカミ】
「ミタリメノワニヒコ」の前2人は誰か。3人続けてと考えると、4代目大物主カンタチと5代目大物主フキネということになるが、私は、「ミタビメクリテ」を単なる順序ではなく、特に「コト」をなした大物主として、フキネを諭したクシヒコ、そしてフキネ、3人目がワニヒコと考える。
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三輪の神とし、代々の皇の
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守り神とする」と言われ、九月十一日に
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三輪の神を祭らせた。そしてワニヒコの子アタツクシネに
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大三輪の姓を授けられ、
【ワニヒコハ モモコソフホゾ 】
ワニヒコはこのホツマツタヱの28綾までを書いたクシミカタマ。「192歳」という歳が現実でないことは明白。28綾本文432に、アスス50年、タケヒトの后となる妹のタタライスズヒメ姫が15歳の時、ワニヒコは108歳と書かれているが、93歳離れた兄妹となり、この「108歳」も、もっと若かったはずだ。ホツマツタヱにはこのように「あり得ない長寿」が多く書かれている。これは実年齢に、功績があったときに与える「誉め名」のように、「誉め歳」が与えられたのではないかと私は考えている。
ここでは臣であるワニヒコに与えられているが、その多くは皇である。天皇の年齢を「宝算」と言い、広辞苑に「天皇の年齢」とあり平家物語が用例として挙げられている。天皇の歳がなぜ「宝算」なのか。その「算」の意味するものは「加算された歳」すなわち「与えられた誉め歳」ということではないか。日本書紀に、崇神天皇は120歳まで生きたことになっているが、「命短し」と書かれている。これは大水口宿祢が神がかりして言った言葉で、岩波文庫版日本書紀でも「ここに短命というのとあわない」と矛盾を指摘している。しかし、私の計算では崇神天皇は42歳位で没しているが、これは他の天皇と比べて特に「命短し」ということでもない。ではなぜ「命短し」なのか。崇神天皇はヤマトオオコノミタマカミ(日本書紀では「倭大神」)を「慎みいわい」祭らなかったので、この時点では誉め歳が与えられていなかったことを表わしているのではないかと考える。崇神天皇の「120歳」は後に「誉め歳」を加算した「宝算(加算年)」だと考えるのが妥当なのではないか。
それでは、「192歳」はどのようにして出てきたのであろう。
タタライソスズ姫の15歳を正しいとし、その時点でワニヒコはホツマツタヱの前半を書き終えていて、齢の加算があったとしてみよう。ワニヒコの生年がはっきりしないので、いくつ齢を加えたのか判然としないが、加算年齢は108歳であった。
タケヒトはアスス58年に52歳で即位し、その前年のアスス57年にタタライソスズ姫と結婚しているので、タタライソスズ姫は22歳で結婚したことになり、その時点でワニヒコの加算年齢は115歳。
タケヒトは68歳(加算年齢127歳)で没しており、同時に洞に入って没したワニヒコの加算年齢は132歳ということになるはずだが、カヌカワミミは、さらに60歳の誉め歳を加えて192歳としたのではないか。ワニヒコ(クシミカタマ)の功績は、ここで改めて192歳とするだけのものがあったのだろう。
ここでは臣であるワニヒコに与えられているが、その多くは皇である。天皇の年齢を「宝算」と言い、広辞苑に「天皇の年齢」とあり平家物語が用例として挙げられている。天皇の歳がなぜ「宝算」なのか。その「算」の意味するものは「加算された歳」すなわち「与えられた誉め歳」ということではないか。日本書紀に、崇神天皇は120歳まで生きたことになっているが、「命短し」と書かれている。これは大水口宿祢が神がかりして言った言葉で、岩波文庫版日本書紀でも「ここに短命というのとあわない」と矛盾を指摘している。しかし、私の計算では崇神天皇は42歳位で没しているが、これは他の天皇と比べて特に「命短し」ということでもない。ではなぜ「命短し」なのか。崇神天皇はヤマトオオコノミタマカミ(日本書紀では「倭大神」)を「慎みいわい」祭らなかったので、この時点では誉め歳が与えられていなかったことを表わしているのではないかと考える。崇神天皇の「120歳」は後に「誉め歳」を加算した「宝算(加算年)」だと考えるのが妥当なのではないか。
それでは、「192歳」はどのようにして出てきたのであろう。
タタライソスズ姫の15歳を正しいとし、その時点でワニヒコはホツマツタヱの前半を書き終えていて、齢の加算があったとしてみよう。ワニヒコの生年がはっきりしないので、いくつ齢を加えたのか判然としないが、加算年齢は108歳であった。
タケヒトはアスス58年に52歳で即位し、その前年のアスス57年にタタライソスズ姫と結婚しているので、タタライソスズ姫は22歳で結婚したことになり、その時点でワニヒコの加算年齢は115歳。
タケヒトは68歳(加算年齢127歳)で没しており、同時に洞に入って没したワニヒコの加算年齢は132歳ということになるはずだが、カヌカワミミは、さらに60歳の誉め歳を加えて192歳としたのではないか。ワニヒコ(クシミカタマ)の功績は、ここで改めて192歳とするだけのものがあったのだろう。
| 31-200 |
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筑紫が皇の行幸を願うと
| 31-201 |
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代理に直り中臣のアメタネコを
| 31-202 |
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行かせた。実りを豊かに建て直したい