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ツアエハル ハツヒサナエノ
ツアト、一月一日サナエに、
【ツアエハル】 和仁估本では「ツアエ」となっているが、計算すると1年ずれているので、訳は「ツアト」とした。
コトホギシ スエヒカサヤエ
新年の祝いをした。二十一日サヤエ
【スエヒカ】 「ヒカ」は1日。月のうちの末の1日は21日。
31-155 ワカミヤノ イミナヤスキネ
若宮、諱ヤスキネは
31-156 トシヰソフ アマツヒツギオ
五十二歳で皇の位を
31-157 ウケツギテ カヌガワミミノ
受け継いで、カヌガワミミの
31-158 アマキミト タカオカミヤノ
天君となり、タカオカ宮の
31-159 ハツコヨミ カミヨノタメシ
元年とした。昔からの慣わしで
31-160 ミカサリオ タミニオガマセ
正装の姿を民に拝謁させた。
31-161 ハハオアゲ ミウエキサキト
母親の御位も上げて、御上后とした。
31-162 ナガツキノ ソフカツミヱニ
九月十二日、ツミヱ
31-163 オモムロオ カシオニオクリ
父、カンヤマトイハワレヒコの遺骸をカシオに葬った。
31-164 ヨソホヒハ アビラツヒメト
その時の様子は、アビラツ姫と
31-165 ワニヒコト トハズカタリオ
ワニヒコが、亡き君への思いを問わず語りして悼み、
31-166 ナシハベル キミトミトモニ
そばに侍っていた。君と、臣のワニヒコが
31-167 ホラニイリ カミトナルコト
洞に入って一緒に亡くなったことを
アスキキテ オイマカルモノ
その翌日聞いて、後を追って死んだ者が
【オイマカルモノ ミソミタリ】 この時に殉死の習慣が生まれた。崇神天皇の時代までこの習慣は続いたが、望まぬまま殉死させられたり、鳥獣に遺骸を荒らされたりして、垂仁天皇のときに廃止され、埴輪に変わった。
31-169 ミソミタリ ヨニウタフウタ
三十三人もいた。その後、人々の間にこんな歌が歌われた。
アマミコガ アメニカエレバ
「アマミコが天に帰ったら
【アマミコ】 カンヤマトイハワレヒコのこと。
31-171 ミソミオフ マメモミサホモ
三十三人も後を追った。忠義も操も
31-172 トホルアメカナ      
尽し甲斐のある天君だった」
31-173 フトシハル ミススヨリヒメ
二年春、ミスズヨリ姫は
31-174 ウチツミヤ シギクロハヤガ
内つ宮に、シギクロハヤの娘の
31-175 カワマタメ オオスケキサキ
カワマタ姫はオオスケ妃に、
31-176 アタガマコ アタオリヒメハ
アタの孫のアタオリ姫は
31-177 スケキサキ カスガアフヱノ
スケ妃になった。カスガアフエモロの
31-178 モロガメノ イトオリヒメオ
娘のイトオリ姫を
ココタヘニ ミコナガハシノ
ココタエにした。イトオリ姫は君が皇子のときより長橋の局として
【ココタヘ】 役割として「長橋の局の璽を守る」とあり、広辞苑に「こうとうのないし(勾当内侍)掌侍(ないしのじょう)4人の中の首位のもの。奏請・伝宣をつかさどる。長橋の局。長橋殿。」とあるので、後の「勾当内侍」と言われる立場であろう。
31-180 ヲシテモリ カダキクニヅコ
璽を守っていた。葛城の国造の
31-181 ツルギネガ メノカツラヒメ
ツルギネの娘のカツラ姫を
31-182 ウチキサキ イトカツラヨリ
ウチ妃に、妹のカツラヨリ姫を
31-183 シモキサキ アメトミガメノ
シモ妃に、アメトミの娘の
31-184 キサヒメモ シモキサキマタ
キサ姫もシモ妃にした。また
31-185 コトメミソ ハヅキハツヒニ
侍女が三十人決まった。八月一日に
31-186 ミコトノリ ワレキクムカシ
詔があった。「吾は、次のようなことを聞いた。昔
オオナムチ コトナストキニ
オオナムチが新田を開発した時に
【オオナムチ コトナストキ】 このオオナムチは5代目大物主フキネ。27綾本文284に書かれていること。
ミモロカミ ワレアレバコソ
三諸神が『吾こそが
【ミモロカミ】 2代目大物主クシヒコ。23綾本文384に三諸の山で洞を掘り亡くなったことが書かれている。オオナムチ、ヤマトヲヲコノミタマカミ、ヲコヌシカミ、大国魂、三輪の神とも呼ばれる。
31-189 オオヨソノ コトナサシムル
ほとんどの大仕事を成させた
サキミタマ マタワザタマハ
幸御魂である。また、業御魂を持つ者は
【サキミタマ】 「幸御魂」と読み、「人に幸福を与える霊魂」(広辞苑)とも、「先御魂」と読み、先祖神とも解釈できる。
31-191 ワニヒコゾ カレオオナムチ
ワニヒコである』と言った。そこでオオナムチは
31-192 ツギトナス ミタビメクリテ
ワニヒコを世継ぎとした。三代にわたって大物主が
31-193 コトナセバ ヒトリワカレテ
大事業をしたので、一人ワニヒコは直系ではないが
ミタリメノ ワニヒコマテガ
その三人目のワニヒコまでを
【ミタリメノ ワニヒコマテガ ミワノカミ】 「ミタリメノワニヒコ」の前2人は誰か。3人続けてと考えると、4代目大物主カンタチと5代目大物主フキネということになるが、私は、「ミタビメクリテ」を単なる順序ではなく、特に「コト」をなした大物主として、フキネを諭したクシヒコ、そしてフキネ、3人目がワニヒコと考える。
31-195 ミワノカミ ヨヨスメラギノ
三輪の神とし、代々の皇の
31-196 マモリトテ ナガツキソヒカ
守り神とする」と言われ、九月十一日に
31-197 マツラシム アタツクシネニ
三輪の神を祭らせた。そしてワニヒコの子アタツクシネに
31-198 オオミワノ カバネタマワル
大三輪の姓を授けられ、
ワニヒコハ モモコソフホゾ
ワニヒコの歳を百九十二歳とした。
【ワニヒコハ モモコソフホゾ 】 ワニヒコはこのホツマツタヱの28綾までを書いたクシミカタマ。「192歳」という歳が現実でないことは明白。28綾本文432に、アスス50年、タケヒトの后となる妹のタタライスズヒメ姫が15歳の時、ワニヒコは108歳と書かれているが、93歳離れた兄妹となり、この「108歳」も、もっと若かったはずだ。ホツマツタヱにはこのように「あり得ない長寿」が多く書かれている。これは実年齢に、功績があったときに与える「誉め名」のように、「誉め歳」が与えられたのではないかと私は考えている。
 ここでは臣であるワニヒコに与えられているが、その多くは皇である。天皇の年齢を「宝算」と言い、広辞苑に「天皇の年齢」とあり平家物語が用例として挙げられている。天皇の歳がなぜ「宝算」なのか。その「算」の意味するものは「加算された歳」すなわち「与えられた誉め歳」ということではないか。日本書紀に、崇神天皇は120歳まで生きたことになっているが、「命短し」と書かれている。これは大水口宿祢が神がかりして言った言葉で、岩波文庫版日本書紀でも「ここに短命というのとあわない」と矛盾を指摘している。しかし、私の計算では崇神天皇は42歳位で没しているが、これは他の天皇と比べて特に「命短し」ということでもない。ではなぜ「命短し」なのか。崇神天皇はヤマトオオコノミタマカミ(日本書紀では「倭大神」)を「慎みいわい」祭らなかったので、この時点では誉め歳が与えられていなかったことを表わしているのではないかと考える。崇神天皇の「120歳」は後に「誉め歳」を加算した「宝算(加算年)」だと考えるのが妥当なのではないか。
 それでは、「192歳」はどのようにして出てきたのであろう。
タタライソスズ姫の15歳を正しいとし、その時点でワニヒコはホツマツタヱの前半を書き終えていて、齢の加算があったとしてみよう。ワニヒコの生年がはっきりしないので、いくつ齢を加えたのか判然としないが、加算年齢は108歳であった。
 タケヒトはアスス58年に52歳で即位し、その前年のアスス57年にタタライソスズ姫と結婚しているので、タタライソスズ姫は22歳で結婚したことになり、その時点でワニヒコの加算年齢は115歳。
タケヒトは68歳(加算年齢127歳)で没しており、同時に洞に入って没したワニヒコの加算年齢は132歳ということになるはずだが、カヌカワミミは、さらに60歳の誉め歳を加えて192歳としたのではないか。ワニヒコ(クシミカタマ)の功績は、ここで改めて192歳とするだけのものがあったのだろう。
31-200 ツクシヨリ ミユキオコエバ
筑紫が皇の行幸を願うと
31-201 ミカワリト ナオリナカトミ
代理に直り中臣のアメタネコを
31-202 クタラシム トヨノナオリノ
行かせた。実りを豊かに建て直したい