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31-256 タマウナハ ワカミヤノウシ
君は夫婦に「若宮の大人
31-257 モリノトミ コモリカツテノ
守の臣」という名を授け、コモリとカツテの
31-258 フタカミオ ヨシノニマツリ
二神を吉野に祭った。
ハハオアゲ ミウヱキサキト
君タマデミは母親のミスズヨリ姫の御位も上げて、御上后とした。
【ハハオアゲ ミウエキサキト】 本文161にも同じ文がある。ただ、この前の文と後の「カレミナモ イミナモソレゾ」の間にあるのが不自然な気がする。「カレミナモ・・」の後に書かれるべきものが前に来てしまったのではないか。
カレミナモ イミナモソレゾ"
このように、名も諱もそのように付けられたのである。
【カレミナモ イミナモソレゾ】 ここまでが昔の話。タマデミアメノ皇君の御名が「タマデミ」、諱が「シギヒト」となったいきさつはこれまでに書かれたことだということ。
31-261 カンナソカ オモムロオクル
十月十日にカヌカワミミ君の遺骸を
31-262 ツキダオカ キミヱノシハス
ツキダ丘に葬った。キミヱの十二月に
カタシホノ ウキアナミヤコ
片塩の浮孔に都を遷した。
【カタシホノウキアナ】 伝承地として、奈良県大和高田市片塩町の岩園座多久虫玉神社の境内に「安寧天皇片塩浮孔宮趾」という石碑が建っている。
31-264 キミトハツ ヌナソヒメタツ
キミトの一月にヌナソ姫が
31-265 ウチツミヤ コレハクシネガ
内つ宮になった。この姫はアタツクシネの子の
オウエモロ ヌナタケメトリ
オウエモロがヌナタケ姫と結婚して
【オウエモロ】 アウエモロと思われる。この文は「アタツクシネの子のオウエモロがヌナタケと結婚した」なのか「アタツクシネがオウエモロの娘のヌナタケと結婚した」なのか分かりにくいが、オウエモロの娘とするには「オウエモロガヌナタケ」と「ガ」が入っているのが普通だと思う。
31-267 イイカツト ヌナソウムナリ
イイカツとヌナソ姫が生まれた、そのヌナソ姫である。
31-268 シギハエガ カワヅメスケニ
シギハエの娘のカワヅ姫がスケ妃になった。
31-269 コレノサキ オオマガイトヰ
これ以前に、オオマの娘のイトヰ姫は
31-270 ナガハシニ ウムミコイミナ
長橋の局になり、産んだ皇子は諱
31-271 イロキネノ トコネツヒコゾ
イロキネ、トコネツヒコである。
31-272 カレウチオ オオスケトナス
そこでイトヰ姫をウチ妃からオオスケ妃とした。
31-273 カワツヒメ ウムミコヰムナ
カワヅ姫が産んだ皇子、諱
31-274 ハチギネノ シキツヒコミコ
ハチギネはシキツヒコ皇子である。
31-275 ヨホツヤヱ ウツキソヰカニ
四年ツヤエ、四月十五日に
31-276 ヌナソヒメ ウムミコイムナ
ヌナソ姫が産んだ皇子、諱
31-277 ヨシヒトノ オオヤマトヒコ
ヨシヒトはオオヤマトヒコ
31-278 スキトモゾ タケイイカツト
スキトモである。タケイイカツ(イイカツ)と
イツモシコ ナルケクニヲミ
イツモシコがケクニ臣になった。
【イツモシコ】 先代旧事本紀によると、次行のオオネとともにウマシマチの孫。
【ケクニオミ】 カヌカワミミまでは即位するとその直下に鏡臣と剣臣、(左右の臣)が置かれていたが、次のタマデミの時はケクニ臣が二人、その次のオオヤマトヒコスキトモは不明だが、その次のカエシネからイクメイリヒコまではケクニ臣が一人置かれていたようである。このように見ると、左右の臣がケクニ臣となり、それが二人から一人に変わったと考えられる。「ケクニ」については、鳥居礼氏の「完訳秀真伝、下巻」322頁に詳しく書かれている。それを参考にすると「食国臣」となる。これまでの左右の臣とのイメージはかけ離れるが、皇の直下で政や祭祀に携わったのであろう。この時代は、政は即、農や食とつながっていただろうから「ケクニ(食国)」となったのだろうか?
31-280 オオネトミ ナルイワヒヌシ
オオネ臣は祝主になった。
31-281 ムホヲシヱ ムツキソヰカニ
六年ヲシヱ、一月十五日に
31-282 ウチノウム イムナトギヒコ
内つ宮が産んだ皇子、諱トギヒコは
31-283 クシトモセ ソヒノハツミカ
クシトモセである。十一年一月三日に
31-284 ヨシヒトノ イマヤトセニテ
ヨシヒトは八歳で
31-285 ヨツギミコ ミソヤサミヱノ
世継ぎ皇子となった。三十八年サミヱ、
31-286 シハスムカ スメラキマカル
十二月六日、皇が崩御された。
31-287 ワカミヤノ モハイリヨソヤ
若宮は四十八夜の喪に入り
31-288 ホギモナシ イサカワミソギ
正月の祝いもしなかった。喪が明けイサ川で禊ぎをして
31-289 ミヤニイデ マツリコトキク
宮に出て政を執った。
31-290 トミワケテ ウキアナノカミ
新旧の臣を交代して、以前の臣は浮孔の神(タマデミ)との別れの
ミアエナス アキオモムロオ
御饗を開いた。秋に遺骸を
【アキオモムロオ ウネビヤマ】 「アキ」は秋、8月1日。今の暦では8月下旬。
ウネビヤマ ミホドニオクル
畝傍山のミホドに葬った。
【ミホド】 奈良県橿原市に安寧天皇陵があり、日本書紀に「畝傍山西南御陰井上陵」とされている。
31-293 トシナナソナリ      
亡くなった君の歳は七十歳であった。
31-294 トキアスス フモヤホサミト
アスス二百八年、サミト
31-295 キサラヨカ ネアヱワカミヤ
二月四日ネアエ、若宮は
31-296 トシミソム アマツヒツギオ
三十六歳で、皇の御位を
31-297 ウケツギテ オオヤマトヒコ
受け継ぎ、オオヤマトヒコ
31-298 スキトモノ アメスメラギト
スキトモ天皇(アメスヘラギ)と
31-299 タタエマス アメノノリモテ
称えられた。代々のしきたりで
31-300 オガマセテ マカリオコヨミ
正装の姿を民に拝謁させた。マカリオ宮元年に暦を
31-301 アラタメテ ミヲヤオクリノ
改めて、亡くなった御親を追悼するため
ホツミヒト シワスノムカト
八月一日と十二月六日との二日
【ホツミヒ】 15綾本文087~092に「ハヅキハツヒニ…ソロノホヅミノ ミケモマタ」とあることから、8月1日とした。
31-303 モハニイリ ナガツキソミカ
喪に服した。九月十三日、
31-304 ハハオアケ ミウエキサキト
母の御位を上げて、御上后とした。
31-305 ムツキヰカ カルマカリオノ
一月五日にカルマカリオに
31-306 ニイミヤコ ウツシキサラギ
新しく都を遷した。二月
31-307 ソヒニタツ アメトヨツヒメ
十一日にアメトヨツ姫が