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アフミヨカ ツクシチノチノ
七月四日、筑紫の行幸の最後の
【ツクシチノチノ タカタミヤ】 「ツクシチ」は筑紫路と読み、「筑紫の行幸」と解釈し、「ノチノ」は「最後の」として訳した。日本書紀(岩波文庫版)に「筑紫後国(つくしのくにのみちのしりのくに)」とあり、注釈に「筑後の国」とある。解釈ノート280に書いた位置関係から福岡県高田町(筑後)に「タカタミヤ」があったと考えられる。
38-272 タカタミヤ オホミケタオレ
タカタの宮に行った。大きな木が倒れていて
38-273 キノナガサ コモナソタケゾ
木の長さは九百七十丈もあった。
38-274 モモフミテ ユキキニウタフ
大勢の人が往来する時に次のような歌を歌った。
アサシモノ ミケノサオハシ
「朝霜が降りている御木の棹橋、
【アサシモノ…】 この地の人が歌っているのだろう。2行目を「偉いお方は、そんなにして渡らなくても」、3行目を「御食の棹橋は架かっているよ」と訳せないだろうか。「偉い人は、寒い朝に霜が降りて滑る木橋を渡らなくても、食べるものには不自由しない。(うらやましいものだ)」という皮肉を込めた歌とは取れないだろうか。岩波文庫の注には「宮廷寿歌」と書かれているが、私には、朝霜の降りた倒木の橋を渡る歌が寿歌とは思えない。
38-276 マエツキミ イヤワタラズモ
前を行く方よ、さあさあ渡らないのですか
38-277 ミケノサオハシ      
御木の棹橋を」
38-278 キミトエバ ヲキナノイワク
君が何の木かと聞かれると、老人が
38-279 クヌギナリ タオレヌサキハ
「クヌギです。倒れる前は
アサヒカゲ キジマネニアリ
朝日の影が杵島峰にかかり、
【キジマネ】 杵島峰。佐賀県武雄市にある標高345メートルの小高い山。日本三大歌垣の一つ。高田からは東西に阿蘇山と杵島山が位置する。
38-281 ユウヒカゲ アソヤマオオフ
夕日の影が阿蘇山を覆う
カミノミケ クニモミケトゾ
御神木でした」と答えたので、君は国の名をミケと
【ミケ】 位置的には三池か。
ナヅケマス ヤツメオコエテ
名付けた。八女を越えて
【ヤツメ】 現八女市辺り。筑後国風土記には「上妻」(カミツヤメ)とあるが、現地名によった。
マエヤマノ アワミサキミテ
マエヤマの霞んで見える頂を見て
【マエヤマノアワミサキ】 「マエヤマ」は八女市の御前岳か。ヤマトオシロワケにミヌサルオウミが「ヤツメ姫がいる山」と答えた場所から見え、「まえ」という言葉が共通していること、そして八女津媛神社の神名備山としても考えられることなどから考えた。「アワミサキ」の「アワ」は「淡い」、「ミ」は「御」、「サキ」は「先端」すなわち山の頂と考え、霞んで見える御前岳の頂を尊んでいった言葉と解釈した。
38-285 キミイワク タタミウルワシ
君が言われた。「山が幾重にも重なり合ってとても美しい。
38-286 カミアリヤ ミヌサルヲウミ
何という神がおられるのか」ミヌサルヲウミが
38-287 モフサクハ ヤツメヒメカミ
「ヤツメ姫神が
38-288 ミネニアリ ホヅミニイタル
峰にいらっしゃいます」と申し上げた。八月に
イクバムラ ミケススムヒニ
イクバ村に着いた。御膳を差し上げる日に
【イクバムラ】 福岡県うきは市。的(イクハ)村が浮羽となり、現在はひらがなで表記されている。
38-290 カシハデベ ミサラワスレル
御膳役が御皿を忘れて来た。
オサイワク ムカシアメミコ
村長が言った。「昔、タケヒト君が
【ムカシアメミコ】 突然「アメミコ」が出てくるが、誰のことか。ホツマツタヱの記述の中で「アメミコ」に該当すると思われる記述を探すと、29綾本文046「アミコミヅカラ」(タケヒト自ら)、31綾本文170「アマミコガ アメニカエレバ」(アマミコ〈亡くなったタケヒト〉が天に還ったら)、39綾本文317「アメミコノ ヒフガニイマス」(タケヒト君が日向に居られたとき)と、タケヒトが浮かび上がってきた。そこでここの「アメミコ」もタケヒトではないかと考える。タケヒトが九州にいた時の行動が今一つはっきりしなかったが、このことで、各地を行幸していたのではないかと想像することができるのではないかと思う。
38-292 ミカリノヒ ココニミケナシ
巡視に来られた時、ここで御膳を差し上げましたが
38-293 カシハデガ ウクハワスレリ
御膳役がウクハを忘れました。
38-294 クニコトバ ミサラオウクハ
こちらの国言葉で御皿をウクハといいます。
38-295 ヰハモコレ カカルメデタキ
ヰクハも同じです。我が村の名前の由来となった目出度い
38-296 タメシナリ ソコホナカヤカ
出来事なのです」十九年九月八日、
38-297 マキムキノ ミヤニカエマス
君は纏向の宮に帰られた。
38-298 フソサミヱ キサラキヨカニ
二十年サミヱ、二月四日、
38-299 ヰモノヒメ クスコウチミコ
ヰモノ姫クスコ内御君が
38-300 イセノカミ マツルイワヒハ
伊勢の神を祭り、
38-301 ツクシムケ ヒメコトシソヨ
筑紫を平定したことを祝った。姫は今年十四歳である。
38-302 ヤマトヒメ コトシモモヤツ
今年百八歳になるヤマト姫は
38-303 ヨロコビテ ヨハヒイタレバ
喜んで、「私は大変齢をとったので
38-304 ワレタリヌ ワガヤソモノベ
勤めはもう十分です。私に仕えていた八十人の物部と
38-305 ソフツカサ ヰモノニウツシ
十二司をヰモノ姫に移して
38-306 ツカエシム クスコオカミノ
仕えさせましょう」と言ってヰモノ姫クスコをアマテル神の
38-307 ミツエシロ タケノミヤヰニ
御杖代にした。ヰモノ姫はタケの宮で
38-308 ツツシミテ ツカエハンベル
謹んで神に仕えた。
ヤマトヒメ ウヂハタドノノ
ヤマト姫は宇治の傍殿の
【ウヂハタドノノ イソミヤ】 「ハタドノ」の「ハタ」は「傍、側、端」と読み、タケの宮の傍の磯宮。「イソミヤ」は36綾本文095で、ヤマト姫がアマテル神の御霊笥を遷した磯部。
38-310 イソミヤニ ヒラキシヅカニ
磯宮に退いて、静かに
38-311 ヒノカミオ マツレバナガク
アマテル神を
38-312 ウマナクゾ フソヰホフミハ
いつまでも祭り続けた。二十五年七月一日、
タケウチニ ホヅマシルベノ
タケウチにホツマ以北の国々の様子を調べてくるよう
【ホヅマシルベ】 ホツマの国は勿来以南なので、「ホツマ以北」とした。「シルベ」は「案内すること、手引き、それをする人」ということから、その様子を調べて君に伝えたり、解説したりする任務と解釈した。
38-314 ミコトノリ キタヨリツガル
詔があった。タケウチは北より津軽や
38-315 ヒタカミヤ カグノヤカタニ
日高見を巡った帰り、香久の館で
ミチオキク モトヒコイワク
国を治める道を聞いた。モトヒコが言った。
【モトヒコ】 37綾本文221に、タジマモリの妻であるハナタチバナ姫の父として出てくる。39綾本文085で相模にいたことが分かる。カグキミ。
38-317 クニシルノ ミチハイニシエ
「国を治める祭りの方法は古くから
38-318  カミノリガヰノアヤ   
神祈り粥の文に書かれています。(神祈り粥の文)