14 天孫瓊瓊杵尊は何をしたのか?
日本書紀や古事記に書かれている瓊瓊杵尊はホツマツタヱではニニキネです。日本書紀は、瓊瓊杵尊が高千穂の峰に天下り、瓊瓊杵尊が妻にした木花開耶姫を疑い、姫が火をつけた無戸室で三つ子を産むというのが大筋です。ホツマツタヱではそのことも書いてありますが、水田稲作の普及・改良に情熱を傾け、民を思う「為政者としてのニニキネの姿」が詳しく書かれています。コノハナサクヤ姫との顛末も含め、為政者としても人間としても豊かに描かれています。
13 知略の人、継体天皇
即位の年が西暦507年と客観的に確認できる極めて重要な継体天皇。にもかかわらず、天皇の血筋から遠く離れた地の「どこの馬の骨ともわからない人物」とか「応神天皇五世の孫という系譜は、皇位継承者として相応しくない」などと言われ、20年も都入りできなかったのは有力豪族が反対したからだとか、散々の言われ様ですが、これらの説に反論。糟屋屯倉での解決はホツマツタヱにさかのぼって考えられるのです。継体天皇は優れて知略の人でした。
12 武烈天皇の在位期間は38年間だった
たった8年の在位期間に、悪行というか猟奇というか、数々の奇行を重ね、18歳で死んだといわれる武烈天皇。在位期間は、雄略天皇の在位年が後ろにずれ、実年代のはっきりしている継体天皇との間で縮められたのだと考えます。また、18歳で死んだというのも不自然で、帝王編年記や皇代記などにあるように57才位だったのではないかなどと、通説に挑戦します。
11 神功・応神紀の紀年と実年代とが120年(干支2運)ずれている謎を解く
「紀年と実年代とが120年ずれている」とはどういうことなのか。それを多くの人は潤色や改竄などの作為をもって書かれたためだと言います。日本書紀は本当にそんなにも意図的にウソを書いたものなのでしょうか。日本書紀の記述から、120年のずれは、意図的ではなかったことを突き止めます。
10 卑弥呼は九州倭国の田油津媛だった
卑弥呼は誰か?実在か否か、古代遺跡が見つかると卑弥呼の名前が踊るほど古代史の謎でありロマンでもある卑弥呼。その卑弥呼が、九州の女酋と言われる田油津媛だと言ったら多くの方は眉にツバをつけるかもしれませんが、この時代の気候や中国の史書、神社史、日本書紀、ホツマツタヱ、地名などから卑弥呼の実態に迫っていきます。
9 謎深き「高良玉垂命」をホツマツタヱから探る
高良大社の主祭神「高良玉垂命」の正体は誰なのか。インターネットのサイト等でも古文献を駆使して解明が多く試みられています。それでも謎の神様と言われる高良玉垂命。その正体をホツマツタヱのカシマ断ちに至る出来事や高樹神社の伝承などから読み解いていく超新説異説です。
8 荒神谷遺跡の銅剣「358本」の謎をホツマツタヱで読み解く
考古学ファンなら一度は訪れてみたい遺跡とも言われる荒神谷遺跡。何のために埋められたのか、未だに確たる説のない358本の銅剣の謎がホツマツタヱから読み解けると言ったら、きっと考古学者や歴史家は目を剥くことでしょう。それが、33〜34綾の物語としても興味深い話の中に書かれているのです。本稿を読まれたら改めてこれらの綾を読み味わってみてください。
7 「一百七十九万二千四百七十余歳」が意味すること
この数は日本書紀とホツマツタヱに出てきます。日本書紀は全く唐突に何の脈絡もなくこの数が出てきます。ところが、ホツマツタヱにはこのような大きな数がこれ以前にも書かれていて、しかも、計算するとつじつまが合うのです。みなさんはこの事実をどう考えますか。
6 「神武東征」の記述から見える「高地性遺跡」
九州から本州、特に瀬戸内海に面した所に多く見られる高地性遺跡は、逃げ城や狼煙台などの軍事施設ともいわれていますが、その他のホツマツタヱの記述からも、平時より要人の往来時に要人を守ったり、情報を発信したり、案内したりするための通信施設だったと考えられます。また、「神武東征」の記述は3000~2000年前の今の大阪平野が河内潟と言われる時が描写されています。
5 神功皇后はなぜ斯くも長く摂政を続けたのか?
日本書紀によれば神功皇后は69年間摂政をしたことになっています。これはいかにも長く、実は仲哀天皇と神功皇后の皇子は若くして没し、応神天皇は孫だったからだと推理しました。ここでは古事記、日本書紀、ホツマツタヱなどから解き明かし、氣比神宮の疑問や二ツ塚古墳の謎なども解いていきます。
4 徐福、卑弥呼、筑紫の君
倭国=日本説、大和朝廷九州説、畿内説、卑弥呼=神功皇后説、等々日本の古代史は諸説入り乱れてこれもまた実にミステリアスです。実は「倭」は朝鮮から中国の沿岸もそう呼ばれていました。わが国の「倭」は徐福が九州に得た「平原広沢」で、私はそれを「九州倭国」と呼び、ホツマツタヱの延長線上に卑弥呼や筑紫の君の姿を浮かび上がらせます。
3 徐福は我が国の古代史に欠かせない人物
全国各地に神社や遺跡などの伝承地があり、その子孫という人も大勢いて、中国では真実の歴史として語られ、それでも伝説上の人物とされる徐福。このミステリアスな人物が、実は我が国の古代史には欠かすことのできない人物だった。ホツマツタヱの記述から、存在を明らかにします。
2 ホツマツタヱから推測した古代史年表
事項の大半が天皇即位と崩御ですが、諸説ある神話とされるこの時代にも、このような為政者が確かにいたと言える無理のない年表ができたと思っています。今後、歴史的事実や考古学などとの関連についても考察していきます。
1 ホツマツタヱから天皇の在位年を探る ー古代史年表を作るー
ホツマツタヱの記述から、記紀には書かれていない「世継ぎ皇子が生まれた年」を手掛かりに、徐福渡来などの西暦との整合性も考慮し、各天皇の在位年を算出しました。そのほかの手法も含めて実例でご説明します。